そろそろ別の話題も、と考えていたが決定的な証拠を見つけたので、一気に完結編と題して書けるところまで書いてみようと思う。
これまでの議論を踏まえていくが、基本的に完結編を読めば済むように努める。が、必要に応じて過去記事も参照いただければ、という前提で進めたい。
まず、確認するのは3,000分の1地形図。別名都市計画図とも言われるだけあって、搭載されている情報は1万分の1地形図の比ではない。まずは、最も古い大正14年測図のものから示そう。
大正12年5月4日に雪ヶ谷駅まで開通している池上電気鉄道であることから、既に地図上には線路及び駅が記載されている。この図のポイントを列挙すれば、以下のとおりとなるだろう。
- 雪ヶ谷駅は、荏原郡池上村(大字雪ヶ谷)と荏原郡調布村(大字鵜ノ木飛地)の境界付近に建設された。
- 雪ヶ谷駅は、出口に側道を設けて中原街道側に接していた。
- 雪ヶ谷駅は、池上電気鉄道では基本の相対式ホームだった。
- 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)はまだこれからだが、駅南側の道路や駅南東側に見える荏原土地会社経営地附近には、新たに直線的な道路がつくられている。
- 嶺変電所(地図中、池上電鉄嶺変電所)は見えるが、操車場等は見えない。
では、続いて昭和4年8月測図の地形図を見て、大正14年版との違いも念頭に置きながらポイントを列挙しよう。
雪ヶ谷駅が見えないが、これはちょうど地図の切れ目に位置し、この上部分(北側)にあると思われる。残念なことにこの上部分(北側)の同時代の地図を見つけることができないが(後段に見にくいが上部分の地図の一部を別途示す)、1万分の1の地図から補完するに、駅の位置はやや北側に移動した可能性が高い。
- 池上電鉄奥沢線(いわゆる新奥沢線)が登場した。
- 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)が進んでおり、駅南側の道路を含め、道路網が大きく変わっている。ただ、古い道路もいくつか残されている。
- 嶺変電所の西側に調布大塚駅が新設された。
- 調布大塚駅南側に車庫らしきものが新設された。
では、続いて昭和13年測図の地形図を見て、昭和4年版との違いも念頭に置きながらポイントを列挙しよう。
- 雪ヶ谷駅が南側に移動した。
- 昭和4年の雪ヶ谷駅の様子はわからないが(後段に見にくいが上部分の地図の一部を別途示す)、この時点では大正14年時の相対式ホームから島式ホームに変わった。同じく、大正14年時に見られた中原街道への側道もなくなっている。
- 新奥沢線が跡形もなくなった。
- 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)がほぼ完了し、中原街道の拡幅以外はほとんど現在と変わらない街区パターンとなった。
- 嶺変電所の西側を通っていた線路が東側を通るようになり(変電所は移設?)、雪ヶ谷駅以南の線路の形状が東寄りに移り曲線が緩やかになった。
- 調布大塚駅がなくなった。
- 車庫の場所が北側の街区に移動し、跡地の一部は東調布警察署となった。
以上の流れを見ていくと、明らかにこれまでの定説を覆す事実に気がつくだろう。そう、それは雪ヶ谷駅の移動遍歴である。「回想の東京急行 I」等に見られるように、雪ヶ谷駅の駅の位置は全部で三つあり、初代(大正12年。開設時)→二代目(昭和3年。奥沢線開通時)→三代目(調布大塚駅統合時)などとされてきた。このうち、初代が最も北側に位置するとされていたのだが、3,000分の1地形図からの情報では、初代から二代目に移行の際、南下したのではなく北上したことが確認できる。そして、三代目となって再び南下し、初代よりも南側に位置するようになった。これは、駅南側道路に接道させるための変更である。この結果、中原街道と区画整理(耕地整理)された道路との接続方法も変わった。昭和13年時点の地形図から明らかなように、既にこの時点で現在の雪が谷大塚駅と基本的な構造が変わっていないことが確認できる。また、昭和22年時点の航空写真と比べてみても、ほとんど変わっていないことから、昭和18年に雪ヶ谷大塚と改名したタイミングで駅の位置をやや南に移動したという内容(「回想の東京急行 I」に記載有)も疑問符がつくものとなる。その後の大きな変更は、駅ビルの建設を別にすれば、かつての池上電気鉄道の車庫だった部分が、再びその役割を持つようになる以外にない。つまり、雪ヶ谷駅周辺の基本的構造はほぼ昭和13年の時点で完成したことを意味するのである。
以前に「東京横浜電鉄沿革史」で調査した曲線半径の変更工事や電車庫の新設等の情報を組み合わせると、雪ヶ谷駅及び周辺の変遷は以下のようになるだろう。
- 大正12年5月4日 池上電気鉄道、池上~雪ヶ谷間を部分開業。雪ヶ谷駅開設。中原街道に接続道を設置。
- 昭和2年8月19日 御嶽山前~雪ヶ谷間に、調布大塚駅を開設。
- 昭和3年10月5日 雪ヶ谷~新奥沢間を部分開業。雪ヶ谷駅を五反田寄りに約100メートル程度移設。接続道路を中原街道から駅北側道路へ変更。
- 昭和8年6月1日 雪ヶ谷と調布大塚が統合。調布大塚駅廃止。御嶽山前が御嶽山に名称変更。
- 昭和9年10月1日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄に吸収合併。
- 昭和10年10月14日 東調布警察署、旧池上電気鉄道の車庫跡地に開署。
- 昭和10年11月1日 雪ヶ谷~新奥沢間廃止。
- 昭和12年10月頃 雪ヶ谷~御嶽山間の曲線改良工事完了。雪ヶ谷駅も蒲田寄りに約150メートル移動、島式ホームとなり、接続道路も駅北側道路から駅南側道路へ変更。
- 昭和13年 雪ヶ谷電車庫及び修繕工場新築。
ここまでは、それなりに資料も豊富なので比較的推論を挟む余地はほとんどなかったが、問題はここからで、いかにして昭和18年に雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改称したのかという肝心な部分の分析は、まだできていない。ただ、ほぼ確実なことは昭和8年6月1日において、雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚への改称は行なわれていないということである。なぜなら、戦前に発行された各種文献、地図等を眺めれば、昭和18年より前のものはすべて「雪ヶ谷」表記のものばかりだからである。中でも重要なことは、同時代資料である「東京横浜電鉄沿革史」内ではすべて「雪ヶ谷」のみで、「雪ヶ谷大塚」とする箇所は一つもないことからも明らかと言えよう。
一方、雪ヶ谷大塚の初出はとなると、以前に紹介した昭和20年当時の池上線の写真は別にして、昭和21年発行の戦災被害図に「雪ヶ谷大塚」という表記が確認できる。つまり、どんなに遅くとも昭和21年時点においては「雪ヶ谷」ではなく「雪ヶ谷大塚」に改称されていた。このことも確実だとなる。
そして、ついに決定的な資料を見つけた。切符である。昭和11年12月14日付けのもので、しっかり「雪ヶ谷→石川台 長原間」とあり、これで確実に昭和8年6月1日改名説は消滅したと言っていい。
残るは、雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改名した時期である。昭和18年説の根拠を私は知らないが、今まで調べてきた中から考えると、典拠は「東京横浜電鉄沿革史」にあるのではないかと考える。つまり、本書では昭和18年の時点においては「雪ヶ谷」のままであり、昭和20年の時点では「雪ヶ谷大塚」に変わっている。なお、前回ご紹介した「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」のP42及びP43に典拠となりそうな写真の一部を以下に示す。
見にくいが、昭和16年8月撮影の写真には「五反田 雪ヶ谷」とある。そして、
こちらは昭和20年撮影の写真。「雪ヶ谷大塚」とあることから、上述の議論の証拠写真として示しておく。
話題戻って、昭和18~20年の間、東急においては二度駅名の変更が実施されており、仮に「雪ヶ谷」が他の駅と同時に改名したと推測すると、このどちらかに該当するのではないかと考えられる。一つは昭和18年12月1日付けで東横線の「青山師範」と「府立高等」を「第一師範」と「都立高校」に改称したもの。もう一つは昭和19年10月20日付けで東横線の「綱島温泉」を「綱島」に、大井町線の「二子読売園」を「二子玉川」に改称したものである。後者の昭和19年の方は、いわゆる時局に鑑みというもので、温泉や遊園地といった娯楽系の名称を当局の指導で変更したものである(自由ヶ丘や多摩川園前が残ったのは地域の力が勝ったため)。となると、雪ヶ谷大塚は前者の昭和18年の方が妥当(東横線の駅名変更は学校名の変更だが、学校の名称変更よりもやや遅れて実施している)であり、よって昭和18年説が出てきたのではないだろうか(あてにならないWikipediaでは昭和18年12月とあるが、まさにこの推論からだろう)。このことは、改称年月日がはっきりしないことからも裏付けられると考える。つまり、消極的な「東京横浜電鉄沿革史」の利用である、となるわけである。
最後の最後を推測で片付けてしまうのは心苦しいが、おそらくは以上のような流れとなるのではないだろうか。
それにしても、いい加減な情報が流布されているものである。専門家でもない私が、多少調べただけでも専門書と称されるべき書籍の記述が誤りを多く見つけることができた。いったい、何を調べてものを書いているのか? 執筆者によく話を伺ってみたいものである。
最後に。昭和4年当時の3,000分の1地形図が東京市域拡張時における町名変更地図に活用されていることがわかり、当該部分を見にくいが肝心な部分を以下に示しておく。
ご覧のとおり、奥沢線が分岐していた頃の雪ヶ谷駅はかなり北側に位置し、巷間言われているように「雪ヶ谷駅跡」として紹介されることの多い場所にある。ただし、これまでの議論から明らかなように、ここは二代目雪ヶ谷駅の場所であって、初代雪ヶ谷駅は現在の雪が谷大塚駅とあまり変わらない場所に位置していた(雪が谷大塚駅中原街道口の位置は、初代雪ヶ谷駅の中原街道接続口とほぼ同じ場所)。
以上、大変長くなったが、これで雪が谷大塚駅の歴史を終える。……って戦前までか。戦後はほとんど変わってないし、あえて挙げるなら、昭和41年1月20日雪ヶ谷大塚から雪が谷大塚に改称くらいのもの。ということで、今度こそこれにて完結。
今度こそ、書いていながら追記。よくよく考えたら、雪ヶ谷駅と調布大塚駅が合併して雪ヶ谷大塚駅とならず、10年近くを経て唐突に雪ヶ谷大塚駅に改称したという最初の疑問には、まったく答えられていない。これについては、今後の宿題としておこう。
2009年6月14日追記
[完結編]と銘打った割には、完結していないのは本文最後に明記したとおりだが、初代雪ヶ谷駅に関する新たな情報を「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」に追記した。まだまだ追記の余地はある…(苦笑)。
最近のコメント