Windows NT系との互換性問題について述べていく前に、ここからはそのWindows NTの歴史を簡単に追っていこう(長くなる予感がするが、なるべくそうしないつもりである。つもりつもって長くなるかも…)。
Windows NTとは何か。今でこそ、Windows NT系列に連なるWindows Vista、その一世代前のWindows XPは、Windowsそのものであることに間違いはない。だが、その出自をさかのぼれば、Windows NTはOS/2バージョン3.0として開発されていたものが、紆余曲折を経てWindows NT 3.1と命名されたものである。
1981年、IBM社はPCを世に出すにあたってIntel社やMicrosoft社と組んだ。当時、世界のコンピュータの巨人であったIBM社は、自社の特許で固めた戦略で世界をリードしてきた。だが、PCに限って言えば従来のそれとは異なり、郷に入れば郷に従えという感じで、8-bitの雄であったApple社のオープンアーキテクチャ戦略を踏襲する形で、ハードウェアの仕様はもとより、BIOSまで公開した。これはこれまでのIBM社のやり方からすれば、考えられないほどの大転換であった。これにより互換機の開発を促すつもりではなかったのかもしれないが、結果としてIBM PCはわずか参入2年ほどでPCの世界をリードするようになる。
このとき、採用されたIntel社のマイクロプロセッサIntel 8088、Microsoft社のDOS(IBM PCに同梱されたPC DOS、Microsoft社がOEM向けとして用意したものはMS-DOS)が、今に続く、x86プロセッサ及びDOS、Windowsに連なるものである。
さて、話をWindows NTに戻そう。IBM社とMicrosoft社の関係は、IBM PCの登場当初はガリバーと小人ほどの差があった。しかし、IBM社がオープンアーキテクチャの功罪の「罪」の方に苦しんでいた。IBM PCアーキテクチャが市場を席巻したものの、IBM社のPCはその市場のシェアを減らし続け、1980年代中頃にはその半分すら維持できなくなっていた。PC市場のパイの大きさは拡大していたため、出荷数そのものは増やしていたが、互換機(クローンを含む)にシェアを奪われ、いつの日にかじり貧になってしまうのではないか。そういうおそれをIBM社が抱いても不思議ではなかった。
オープンアーキテクチャからクローズドアーキテクチャへの転換。これがDOSからOS/2への移行と表裏一体のものであった。互換機(クローン)の拡大で利益を上げるMicrosoft社にとって、この方針を受け容れられるものではなかったが、まだまだIBM社の影響力を無視はできず、共同開発という形でOS/2の開発に乗り出した。
DOSからOS/2への移行は、プロテクトモードのサポートをはじめ、数多くの機能が追加されたが、当時はハードウェアが貧弱だったこともあって、OSの機能よりも優れたアプリケーションソフトウェアが実行できなければ意味がなかった。また、IBM社の十八番であったホストコンピュータなどとの体系にPCが組み込まれるなど、当時PCにあるとされた「自由」がこれによって「束縛」されてしまうのではという危惧も出された。
IBM社にとって互換機(及びクローン)追放は「益」であるが、それ以外の他社にはそうではなかった。そこで、互換機メーカの代表的なメーカは連合を組んで、IBM社の路線とは異なる新たな、そして従来のPCと互換性のあるものを規格化する動きを見せた。特にCompaq社は、IBM社の戦略上あえて採用しなかった32-bitマイクロプロセッサi80386を搭載した、Deskpro386をデビューさせた。
i80386はIntel社にとっても有益なもので、利益率が高いだけでなく、i80286以前のようにセカンドソース契約を一切行わない(例外はIBM社)ことから、供給面で危ぶまれてはいたものの、事実上独占状態で供給することが可能となる重要なマイクロプロセッサだった。
つまり、IBM社のクローズドアーキテクチャ戦略によって、その忠実な僕であったはずのMicrosoft社やIntel社は、IBM社の方から数多の互換機メーカの方を向くようになっていたのである。
長くなりそうだ(苦笑)。ということで、ここで次回に続くとします。
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