まさか、こんなに早く…。
Apple社創業者の一人で前CEOのSteve Jobs氏が現地時間5日、お亡くなりになったと発表があった。確かにCEO引退までの過程を見れば、復帰は難しい…というか不可能に近いだろうと思っていたが、人生まで終止符を打ってしまうとは…。
もう1か月前以上になるが、Steve Jobs氏がCEOを辞職した際、「さらば Steve Jobs、徒然とAppleを語ってみる」と題した記事を書き始めたのだが、思い出が多すぎて(故人に対してというのではなくAppleに対して…となるのだが)長文になってしまい、欧州出張なども重なったりして、後にしようなどと放置していたのだが…。
う~ん…。1955年生まれというから、まだ56歳なんだよなぁ…。最後に直接会って言葉を交わしたのはまだスカリーに追い出される前の80年代だったので、かれこれ30年近く前。まだJobs氏は20代だったのか…、と長い年月を一気に飛び越えてあの頃の記憶がよみがえる。
今(10月6日午後6時時点)、Apple社のトップページから1クリックで、哀悼の電子メールを受け付けているが、私もすぐに出させていただいた。
さようなら、Steve Jobs。
─── ということで、途中(かなり前半までで記事の推敲もしていない)まで書いた「さらば Steve Jobs、徒然とAppleを語ってみる」という記事を掲載して今回はこれまで。合掌。
VAIO Z21を持ち歩くシリーズでも書こうかと思っていたが、やはりこのニュースにふれないわけにはいくまい。Apple社のSteve Jobs(スティーブ・ジョブズ)氏がCEOを退任した、というニュースだ。Apple Press Infoの「Letter from Steve Jobs」(8月24日付)の短い文書には、淡々と理由が語られているが、病気による退場は無念であることだろう。やはり、健康第一だ。
という書き出しで、あれこれ書こうと思って早一週間以上。激務により書くどころではなくなったが、せっかく途中までは書いていたので完成したらお披露目にしようと言うことで、すっかりタイミングを逸した内容ではあるがそこはそれ。てなわけで旬を通り過ぎた話題に対する思い出話に花でも咲かそう。
で、話を戻して、Jobs氏は会長職にとどまるという形はとっているが、Microsoft社のBill Gates氏同様、もう影響力を行使することは不可能だろう。というより、病気療養という時点で厳しかったものが、これを理由として退任なのだからさらに状況は厳しい。今後、Apple社はJobs不在で行くことになるが、思い起こすのはJobs氏不在のApple社(Apple Computer)の12年だ。1985年から1997年の約12年間、Jobsがいない間のAppleには大きく分けて次のようなことがあった。
- MacOS vs Windows
- MC680x0からPowerPCへ
- 次期MacOS(System 7.x)の開発難航
- Appleの身売り話
では、最初に「MacOS vs Windows」から語っていこう。
Jobs氏が去った1985年は、まだWindowsはバージョン1.0が出るか出ないかといった時期で、Macintosh(将来のMacOS)のGUIに遙かに及ばなかったというより別物だった。これは採用するマイクロプロセッサの能力に大きな差(MC68000とi8086では…)があったからで、同じ土俵に上がるレベル以前であった。しかし、Intel社はマイクロプロセッサ事業に大きく舵を切る頃にもあたっており、脳挫傷と揶揄されたi80286に続く初の32-bitマイクロプロセッサi80386をライバルMotolora社よりも先に発表。1990年を迎える頃には、こなれたi80486やクロックダブラ技術を搭載したi80486DX2を準備するなど、マイクロプロセッサ開発の遅れが目立ち始めるMotolora社に差を付けるようになっていた。
これに呼応するように、Microsoft社もIBM社とのOS/2共同開発の経験と確執を経て、真の32-bit OS OS/2バージョン3候補(のちのWindows NT、現在のWindows 7の始祖)を用意する一方で、i80286やi80386のマイクロプロセッサアーキテクチャを取り入れたWindows/286 2.xやWindows/386 2.xを開発、リリースした。注目すべきは仮想86モードの使い方で、そもそもMicrosoft社のアイディアをIntel社が具現化しただけあってDOSとの相性がよく、プロテクトモードを使いながら従来のDOS(8086)が使えるようになったのは大きかった。我が国でもDOSに日本語FEPを載せる際、コンベンショナルメモリを極力利用しないよう、EMM386によって拡張メモリに移動する「技」が利活用されたが、これもすべて仮想8086モードのおかげである。
Windows 2.xでOS基盤を整えたMicrosoft社は、1990年、満を持してWindows 3.0を大々的に発表する。「当時としては」GUIを一新し、プロポーショナルフォントを採用(ただし日本語版はみすぼらしいダサい等幅フォントのみ(外部製品を購入すれば──例えばWIFEフォントとかATM(現金自動預け払い機ではなくAdobe Type Manager)─ 可能)だったが…。またシステム標準のアウトラインフォント(TrueType)は3.1からの搭載)して見栄えはMacintoshに負けないものとなった(勝ったというには判官贔屓視点が必要)。そして、一気に北米市場はWindowsに染まっていくのだった(我が国は遅れて3.1あたりで染まり始める)。ここで注しなければならないのは、現在もApple信者が似たことを宣うように、MacOSとMacintosh搭載機としてはシェアは低いがWindows PCは多数のメーカが多数の機種を発表しているので、機種毎に比べればMacintoshは上位に位置するという理屈を駆使して、大して危機感を抱いていなかったのだ。
これはWindows 95で決定的となる。MacOSが苦しみ藻掻きながら、プリエンプティブマルチタスクや32-bit化に汲々とし、なかなか決定打が出せないうちにWindowsはついにハイブリッドではあるが32-bit化と、同じく不完全ではあるがプリエンプティブマルチタスクを実現してしまったのだ。また、GUI訴訟で決着がついたことでWindows 95のデスクトップにはMacintoshと見た目の機能が同じ「ゴミ箱」がついに登場する。Macintoshに遅れること10年以上、またWindows 1.0から10年でついに見かけも機能でも、WindowsはMacOS(Macintosh)を超えたのだった。この結果、Macintoshのみにリリースされていた多くのソフトウェアもWindowsに移植されるようになり、Macintoshの優位性(マーケティング上の、と一応注釈を入れておく)はほとんど失われ、Macintoshはもうダメだと囁かれるようになり、MacOSの他社への提供なども行われた。まさに、Jobs氏のいない間に、Macintoshはその財産(資産)を使い果たし、Windowsの攻勢に押され青息吐息だったのだ。
(途中も途中ですが、ここまでです。)
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