明治22年(1889年)の市制町村制施行後から、昭和7年(1932年)の東京市への合併までの間に、東京府荏原郡内の町村間で境界線が変更(異動)したことを東京府告示から拾い集めたものが、以下の15例である(年月日として数えれば11回)。
- 大正6年(1917年)8月1日 大井町と入新井村
- 大正11年(1922年)4月18日 大井町と平塚村
- 大正12年(1923年)4月17日 平塚村と碑衾村、碑衾村と馬込村
- 昭和2年(1927年)8月23日 調布村と玉川村
- 昭和2年(1927年)11月1日 品川町と荏原町
- 昭和4年(1929年)7月25日 東調布町と玉川村
- 昭和4年(1929年)12月19日 荏原町と碑衾町
- 昭和6年(1931年)9月8日 池上町と東調布町
- 昭和6年(1931年)12月19日 入新井町と大森町
- 昭和7年(1932年)9月15日 入新井町と大森町、入新井町と池上町、大森町と池上町
- 昭和7年(1932年)9月28日 大森町と蒲田町、入新井町と池上町
東京府荏原郡は、現在の東京都品川区、同目黒区、同大田区、同世田谷区の大部分に相当するが、東京市合併直前の荏原郡は品川町、大井町、大崎町、荏原町(平塚町)、目黒町、碑衾町、入新井町、大森町、馬込町、池上町、東調布町(調布村)、蒲田町、矢口町、六郷町、羽田町、玉川村、駒沢町、世田ヶ谷町、松沢村と19町村で構成されていた。このうち、境界変更にかかわったのは10町村とほぼ半数である。
これを表に表したのが上表で、網掛けのないところ(入新井と平塚の交点を網掛け漏れ)が境界を接していることを示し、○を付したものが境界変更を相互に行ったことを示す。多くの町村と隣接するところが境界変更に多くかかわるのは自明であるが、馬込町(村)のようにたった一つだけのところもある。無論、世田ヶ谷町のようにこの表に出てこない(=町村境界変更がない)ものもあるので、表だけで判断は早計だが…。
さて、町村同士の境界変更は、一部を除けばすべてが耕地整理(区画整理)に伴うもので、最初期は田園都市株式会社の一人施工(平塚・碑衾・馬込が洗足、調布・玉川が多摩川台=田園調布)で行われたものとなっている。そして興味深いのは、昭和7年(1932年)10月1日に東京市に合併される、わずか3日前に境界変更を行っている事例だろう。当然、時期的に東京市議会で合併議案が可決・成立した後であって、せっかく確定したものをあえてぎりぎりのタイミングで変更するというのは、それほどまでに差し迫った事情があったとしか思えない。それが何かは未確認だが、東京市への合併騒動は数多あるため、その中の大きな問題の一つであったことだろう。
なお、東京府の告示がすべて町村の境界変更をあらわしていたのかは不明である。無論、調査漏れ(見逃し)もあると思うが、荏原郡だけ見ても、たったのこれだけしか町村境界変更が行われていないというのは疑問符が付く。単に申請漏れなのか、それとも告示するまでのものではないということなのか(とはいえ、大正11年の大井町と平塚村の境界変更はたったの1筆程度であって、これを考慮すればすべての境界変更が含まれていると解するほかない)。
まだまだ基礎的調査の必要を痛感しつつ、今回はここまで。
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