何回かにわたって、現在の東京都目黒区に属する碑文谷第二耕地整理組合地の地名変遷を追ってきたが、最終回(予定)の今回は現在どうなっているかを確認し、地名の栄枯盛衰をくみ取ってみよう。
まず、昭和7年(1932年)10月1日、荏原郡碑衾町が東京市に合併し、目黒区となった際の状況を示そう。
前回示した、昭和7年(1932年)9月10日の3大字誕生時と比べ、大字名に「町」字が追記されたに過ぎないが、昭和10年代に入り景気が上向いてくると、碑文谷耕地整理組合地と碑文谷第二耕地整理組合地に挟まれた地域でも、区画整理事業(既に耕地整理法による方法は廃止されていた)の機運が起こってくる。周囲が耕地整理事業によって次々と道路が整備され宅地化が進めば、否が応でも取り組まなければならない、となったわけである。
これは同時に目黒通りの拡幅工事とも相俟って、昭和17年(1942年)頃までには土木工事の大半が終了したが、戦時時局の悪化に伴い、区画整理の工事どころではなくなる。工事が完了するのは戦後になってからのことだが、街区を確定する工事は戦前には概ね終わっており、このことは昭和22年(1947年)の航空(空中)写真からも確認できる(時間がないので大雑把に緑で囲んだ一帯)。
つまり、曲がりくねった旧目黒通りから、新たに拡幅・直線化された目黒通りができたこと(上写真上方を左下から右上に伸びる広い道路)で、本郷町等の境界線が引かれ直された。が、それ以外の異動は特になく、そのまま住居表示による新町名の洗礼を受けるまで続く。
これが大きく変わったのは、全国レベルで地名に係わる運動を巻き起こした住居表示制度に基づく、町名・行政区画の改変である。既に改変されて40年前後経過しているので、人口の半数程度は旧町名を知らずに人生をおくっているだろうが、それより古い方々には郷愁を誘うものがあるだろう。それはともかく、現在はこのようになっている。
鷹番一丁目から三丁目、そして碑文谷の一部として碑文谷五丁目、同六丁目が大半となった。鷹番は、単に小字の一つに過ぎなかったが、もともと目黒区の由来を紹介するときに外すことができない江戸期の御狩場と鷹番屋敷、これに因んだ「鷹番」の存在は大きいということだろう。一方で、由来の古い三谷は鷹番等に呑み込まれてしまった。三谷の名は辛うじて町会名に残る程度に過ぎない。
そして本郷は、そもそもは本郷町の場所ではなく、前回、大字小字名表に示したように「本郷」「本郷前」「本郷後」という字が、現在の碑文谷三丁目、同四丁目辺りにあり、ここが古くからの碑文谷地域の中心地だった。しかし、碑文谷第二耕地整理事業によって整備された地域に、本郷の名を奪われてしまったのである。字本郷などは、東京市合併時に大字碑文谷の名を継承し、碑文谷を名乗ることになるが、本郷の名を他地域に使われるというのはいい気がしなかったに違いない。しかし、本郷町は住居表示制度によって、碑文谷の一部を形成することになり、本郷の名は消滅した。
また、駒沢通りで区切られた一部が五本木三丁目の一部となった。五本木は、かつての荏原郡目黒町に属する字であり、大字碑文谷とは隣接こそしているが別地域である。こういう分別の無さが住居表示であるが、ここにもそういうよくある例がある、ということだ。さらにとどめが、鷹番小学校の属する地が中央町一丁目になったこと。字鷹番にできた小学校が、住居表示によってまったくどうしようもない町名に属することとなってしまった。
といったところで、今回はここまで。
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