碑文谷耕地整理組合地の話題は、前回で終了の予定としていたが、おまけにもう一つ。「碑文谷耕地整理組合(東京目黒区ほか)の範囲とその概要」で示した現代の航空(空中)写真に組合地を図示したものと、1936年(昭和11年)当時の航空写真とを比べて、改めて耕地整理の進んだエリアとそうでないエリアの比較を行ってみたい。
碑文谷耕地整理組合範囲図(青い部分。なお、赤は三谷耕地整理組合、緑は洗足田園都市)
碑文谷耕地整理組合範囲図(水色部分。なお、緑線は目黒蒲田電鉄線、橙線は目黒通り(旧)。1936年撮影)
航空写真の都合上、どうしても現在のものと同じようにならないのはご容赦願いたい。特に、南(下)側が欠けてしまう点は、写真原板及び真北を上に合わせるためにどうしても入らなくなってしまう。だが、碑文谷耕地整理組合地と旧目黒通りに挟まれた、碑文谷エリアの中心地がまったく都市化が進んでいないことを確認するには十分だ。
荏原郡碑衾村、明治22年(1889年)に碑文谷村と衾村が合併して誕生し、被合併村はそれぞれ大字として東京市に合併されるまでの間、存続した。このうち、大字碑文谷を構成した碑文谷村の中心は、碑小学校や碑文谷八幡等のあるあたりであった。現在の東急目黒線、東急東横線は碑文谷の中心地域から離れた辺境に開通したが、関東大震災後の人口郊外移転と耕地整理事業の進捗によって、10年も経たずに一気に市街地化が進行する。
また、東横線側でも耕地整理組合が結成され、この航空写真撮影当時には耕地(区画)整理も完成し、市街地化が進んでいた。つまり、かつては碑文谷村の辺境に過ぎなかった地域が、鉄道の開通によって市街地化が進み、村の中心だったはずの地域が完全に開発から取り残されてしまったのである。
この状況は、戦後になってもしばらく続き、区画整理事業が完成した昭和30年代以降になって、ようやく市街地化が進む。この頃には、既に車社会の到来がはっきり見えていたので、戦前に施工された耕地整理組合地よりも道路が広いことがメリットであり、結果として良好な住宅地を形成しているが、皮肉なことに開発から取り残されたのが原因であったのだ。
といったところで、今回はここまで。
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