ここ数回は、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄(と東京横浜電鉄)、玉川電気鉄道と今日の東京急行電鉄を形作った鉄道会社を取上げ、続いて大東急を形成した際に合併した京浜電気鉄道、小田原急行鉄道を取上げた。この流れからお察しのように、今回は京王電気軌道である。
京王電気軌道は、いわゆる大東急に最後に合併された鉄道会社だが、その合併は昭和19年(1944年)と戦局も押し迫った時期で、陸上交通事業調整法の趣旨というよりは交通事業の整理・統合であった。京王電気軌道は鉄道よりも電力供給事業に多くの営業利益を得ており、その事業が国策化されることでほとんど死に体に近い状況で東京急行電鉄に合併された。とはいえ、京浜電気鉄道や小田原急行鉄道の合併以上に根強い反対があって、戦後の分離・独立も当然大きな声が上がったが、電力供給事業が二度と戻らぬ状況でもあったことから、旧京王電気軌道の路線だけでは独立採算が危ぶまれたため、窮余の策として小田原急行鉄道(旧帝都電鉄)の井の頭線を京王傘下に組み入れ、京王帝都電鉄として独立した。現在は社名変更して京王電鉄となったが、「帝都」を社名から外すのであれば、旧帝都電鉄の井の頭線は小田急電鉄に返せばいいと思うのは私だけか…(苦笑)。
さて、それはともかく、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」105~106ページの「京王電気軌道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。
創立………………明治四十三年九月
開業………………大正二年四月
資本金(公称)…一千二百九十万円
資本金(払込)…八百二十二万九千八百十七円五十銭
営業線亘長………二十四哩四十鎖
軌間………………四呎六吋及び三呎六吋
車輌ボギー車……五十八輌
車輌 単車………二輌
運輸従業員………二百五十名
兼業………………電気供給
(昭和二年五月末日現在)
当社は明治四十三年九月の創立で、大正二年四月笹塚、調布間を先ず開業し、次て大正四年五月笹塚、新宿間を完成せしめ、更に同年六月には支線調布、多摩川原間、九月には調布、飛田給間、十月には飛田給、府中間と順次に竣工開通したのである。斯くて大正十五年度末(十一月三十日)の営業線は本線、支線を併せ十四哩三十二鎖を算したが、同年十二月一日に姉妹会社たる玉南電気鉄道株式会社(注)を合併し其の営業線府中、八王子間十哩八鎖を新たに増加し、初めて東京、八王子間を連絡する京王電車の実を備うるに至った。尚当社は創業の当初、軌道工事未成区間に於て其の竣工に至る迄一時の代用機関として調布、府中間及新宿、笹塚間に於て乗合自動車運輸を行ったことがあった。
(注)玉南電気鉄道株式会社は大正十一年七月資本金百五十万円を以て創立し、大正十四年三月京王電気軌道の終点府中駅構内から発して一直線に東八王子に至る十哩八鎖(軌間三呎六吋)を開業した。同線は京王線を通じて東京から八王子、高尾山方面に至る近道であって、八王子市街自動車及高尾自動車両社と連絡して一般乗客及遊覧客を吸収していた。
当社営業線の詳細は次表の通りであるが、左記の中東京都市計画区域内に属する線路亘長は新宿起点七哩三十二鎖である。
京王電気軌道営業路線(昭和二年七月一日現在)
笹塚-調布………… 七哩四八鎖 大正 二、 四、一五
新宿-笹塚………… 二哩三三鎖 同 四、 五、 三
調布-多摩川原…… 〇哩五二鎖 同 五、 六、 一
調布-飛田給……… 一哩一一鎖 同 五、 九、 一
飛田給-府中……… 二哩四八鎖 同 五、一〇、三一
府中-八王子………一〇哩〇八鎖 同 一四、 三、二四
尚当社の資本金は創立当初は百二十五万円に過ぎなかったが、爾来数次の増資を行った外最近には玉南電気鉄道との合併に依り現在では一千二百九十万円を擁するに至った。
次に当社の計画線に就ては新宿追分起点を現在の箇所より一、二町都心寄りに移し其の路線を専用軌道とし、併せて新宿駅舎を新築する計画があり、予て工事中であったが此の程竣工した。此の外出願線としては当社の幹線笹塚より新宿に至る二哩半の地下鉄道がある。
当社の運輸成績は次表の通りで逐年逓増の趨勢にあるが、大正十五年度の業況は一日平均乗客は五万五千四百五人、賃金は三千四百七十二円八十八銭である。
(次表略。)
京王電気軌道は、その名が表すように東京と八王子を結ぶことを目指したが、上記から確認できるように府中~八王子(東八王子)間は玉南電気鉄道が開業した。これは、地方鉄道法に基づく補助金を得るために、軌道法所管の京王電気軌道ではなく地方鉄道法所管となる新会社を設立したからである。それが玉南電気鉄道で、軌間も京王電気軌道のそれではなく、地方鉄道主流の1067mm(=3呎3吋)軌間で施工した。しかし、結果は中央線と並行区間だと認定され補助金は得られず、それなら別会社である意味はないとばかりに両社は合併し、合併の翌年には改軌工事が竣工し、全線軌道法による1372mm軌間となった。
また、多くを甲州街道と平行した軌道電車として運行していたため、一定の乗客・運輸収入はあったものの、平行する省線中央線との競争は避けられず、同じく省線東海道線と平行していた京浜電気鉄道のように東京(品川)~横浜の両端と比べると、新宿はまだしも一方の終端が八王子では旗色が悪い。さらに京浜工業地帯となっていく産業の成長著しい京浜電気鉄道沿線と比較するには、京王電気軌道は相当に厳しいとなるだろう。東京市の記述には好悪のいずれもが書かれておらず、実現の可否は別として計画路線もぱっとしない。これでは電力供給事業が失われれば、早晩立ち行かなくなるのは自明であるし、戦後になって独立する際に小田急から井の頭線の譲渡を受けるのも当然かもしれない。
では、以前と同様、最後に本書掲載の「京王電気軌道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。
大英断を以て改軌を断行した京成電鉄と比べて、市電への乗り入れの夢の遺産である1372mmのままである京王電鉄は本八幡どまりの止むなきに至っています。ニューヨークの馬車鉄道の中古レールがこのような形で残ったのも何かの因縁でしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2014/02/04 10:16
帝都線
ご説の通り、空襲で車両の大部分を失ったときに、下北沢に引き込み線を敷設して小田急から救援車両を送り込んだ経緯からみて、小田急に返却するのが筋かもしれませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2014/02/04 22:09