これまで直近6回にわたって、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄(東京横浜電鉄含む)、玉川電気鉄道、小田原急行鉄道、京王電気軌道(玉南電気鉄道を含む)の各社を眺めてきた。今回は、これまで省略してきた大正11年(1922年)上期より昭和2年(1927年)上期までの11期にわたる一日平均乗客数と一日平均賃金(運賃)収入を6社横並びで比較し、考察していく。では、早速、一日平均乗客数の表とグラフを示そう。なお、上期とは前年12月1日から当年5月末日まで、下期とは当年6月1日から当年11月末までを指す。また、★の付いた昭和2年上期は、小田原急行鉄道のみ昭和2年4月のみの一日平均となっている。
圧倒的なのは、関東最古の郊外私鉄であり、東京(品川)~横浜(神奈川)を東海道とほぼ平行して走る京浜電気鉄道である。この間、路線延長のあったのは大正14年上期にあたる品川(北品川)~高輪間のみで、品川駅前まで乗り入れたにもかかわらず、乗客の伸びには大きな影響を及ぼしていない。むしろ、前年の大正13年上期の伸びが大きいが、同年下期の関東大震災の被害によって頭打ちの傾向が続いているといえる。
軌道線の玉川電気鉄道と京王電気軌道は、どちらも似たような伸びとなっているが、甲州街道と大山街道の繁華の差が表れているか。興味深いのは、京王電気軌道は新宿から都心方向よりも八王子・高尾方面への進出に力を注いだのに対し、玉川電気鉄道は南武鉄道の溝ノ口までは延伸させたものの、都心方向へ渋谷から天現寺橋まで延伸させたり、三軒茶屋から下高井戸、玉川から砧、さらには渋谷橋から中目黒(目黒町役場前)へと線から面への指向を見せる。しかし、巨大な新興繁華街新宿を抱える京王にはわずかに及ばなかった。
驚異的な発展を見せるのは目黒蒲田電鉄で、大正13年下期、つまり関東大震災を契機として一気に3倍近い伸びを見せた後、昭和2年上期には軌道線の京王電気軌道と玉川電気鉄道を追い抜き、京浜電気鉄道に次ぐ乗客数となった。この頃は、実質、目黒~蒲田間のみであったものの、その区間だけで達成しており、沿線人口の爆発がいかにすさまじいものだったかがうかがえよう。その後も大井町線、東京横浜電鉄線が順次開業し、京浜電気鉄道をも抜き去っていく。
そして我らが(苦笑)池上電気鉄道。思いっきり0に近い、x軸にへばりつくような展開となっている。大正11年下期は事実上、1か月半ちょっとで907人、続く大正12年上期で1,078人と、いくら蒲田~蓮沼~池上と3駅しかなかったとはいえ、この数字は寂しすぎる。大正12年上期の最後の一か月(大正12年5月)からは、雪ヶ谷まで延長されたが、それでも2,000人に届かず。関東大震災による郊外移転の影響も微々たるもので、ようやく3,000人台に乗せるのが精一杯。大正15年下期においては、慶大グラウンド前駅の開業と大学野球の宣伝効果があったからか、3,952人と過去最高の数字をたたき出すが、オフシーズンになればまた減少してしまうという残念な結果に。だが、グラフで見ればはっきりわかるが、他社と比較すればこの程度の増減は誤差の範囲でしかない。開業間もない小田原急行鉄道に、最初から抜かれてしまうのも止むを得ないといったところか。
続いては、一日平均運賃収入の表とグラフを示そう。
まず、注意点から。京浜電気鉄道の大正11年上期の運賃収入は、不明のため未記載となっている。さて、運賃収入はだいたい乗客数と同じような傾向を示すが、目黒蒲田電鉄は運賃レベルでは京王電気軌道と玉川電気鉄道を追い抜いていないことがわかる。これは、目黒蒲田電鉄の短距離の利用が多いという証左で、実際、多くの乗客は目黒~洗足に集中していた。昭和3年(1928年)に、武蔵小山駅と洗足駅の中間に西小山駅が開設されるのも、この一帯まで人口稠密地帯だったからである。
そして、小田原急行鉄道がいきなり京浜電気鉄道の次に位置するのは、新宿~小田原という長距離を一気に開業したことから、一人あたりの運賃が高額だった(他社線よりも長距離乗車する=運賃が高額)ことによるが、以前ふれたように固定資産の負担は大きく、この程度の収入ではまったくお話しにならなかった。もっとお話しにならないのは池上電気鉄道で、乗客数以上に低空飛行の運賃収入は、雪ヶ谷~蒲田というまったく都心と接続していない盲腸線というだけでなく、営業に力を入れていたとはとても思えない惨憺たる結果となるだろう。池上電気鉄道が面目を一新するのは翌昭和3年(1928年)、五反田駅へ接続してからだが、エリアを広げる目黒蒲田電鉄に対抗するにはあまりにも貧弱であり、頼みとしていた京浜電気鉄道もこのような営業成績では見限られるのも当然だといわれても仕方がない。
といったところで、今回はここまで。
東急グループの営業キロ当りの営業成績は段とつの一番ですが、田園都市線でも開業以来の手法である宅地開発を綿密に行った結果と言えるでしょう。ただ人口減少傾向に歯止めがかかっていませんのでこれからの経営戦略が見物ですね。京浜急行に関しては、大正3年の京浜線の高速新型電車による電化で大打撃を受けたと言うことですが、持ち直していると言うことは京浜工業地帯の発展が貢献しているのでしょうか。池上電鉄に関しては川崎財閥も匙を投げたのでしょう。もっとも川崎財閥自体もすぐに三菱銀行を合併しておりますので、事業継続意欲を失ったのでしょうか。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2014/02/05 10:10