前回の中原街道に続き、今回は第二京浜(第二京浜国道)の交差点名を取り上げる。前回同様、交差点名を都心側から列挙していき、カッコ内は交差する主要道路を記している。
- 西五反田1丁目(山手通り)
- 中原口(中原街道)
- 西五反田八丁目
- 百反通り
- 戸越銀座
- 戸越三丁目
- 中延駅入口
- 二葉四丁目
- 馬込駅前
- [環七入口]松原橋(環七通り)
- 馬込坂下
- 西馬込
- 馬込中学校前
- 本門寺入口
- 池上二丁目
- 池上三丁目
- 池上警察署前
- 千鳥一丁目
- [矢口陸橋](環八通り)
- 矢口三丁目
以上が第二京浜の交差点名一覧となるが、「○○丁目」とあるのが18交差点名中、8交差点名と半数近くを占め、前回の中原街道とはかなり趣が異なる。直接的な理由かは検討の余地があるが、これは中原街道と第二京浜の成立経緯にあると考えられる。中原街道は、前回記したように江戸期以前からの由来を持つ古道をベースとした伝統的な道路であるのに対し、第二京浜は昭和に入ってから計画された我が国最初の自動車専用道路として位置づけられた、立体交叉を前提とした道路という点が異なる。また、既存の道路を拡幅したのではないという点も大きな違いと言っていいだろう。
では、各々の交差点名について気になる点なり思うところなりを以下に示そう。
西五反田1丁目(にしごたんだいっちょうめ)
山手通りとの交差点だが、ここが第二京浜としての起点となる。これより都心(五反田駅)方面は、桜田通りと呼称が変わるが、国道1号線としては同一となっている。都市計画道路としてのナンバリングと通称としての道路名が共通しないのは当然だが、区間が異なるのも珍しいことではない。珍しいのは「1丁目」という表記で、「一丁目」となっていないのは国が設置した標識板だからか。
中原口(なかはらぐち)
前回とりあげた中原街道との交差点。
西五反田八丁目(にしごたんだはっちょうめ)
こちらは漢数字表記の「八丁目」。この近辺は交差点名(標識)が稠密で、わずか500メートルほどの区間に4か所もある。特に次の百反通りとの距離は50メートルにも満たない。
百反通り(ひゃくたんどおり)
大崎駅方面とを結ぶ地域道の名で、この道路と交差することから命名された。
戸越銀座(とごしぎんざ)
東西に長い戸越銀座商店街(正確には複数の商店街の連合体)を分断する形で建設された第二京浜(新京浜国道)は、この交差点を戸越銀座と命名した。
戸越三丁目(とごしさんちょうめ)
補助26号線(城南通り)との交差点。
中延駅入口(なかのぶえきいりぐち)
戦前に鉄道との立体交叉化が進められ、現在の東急多摩川線、東急池上線は地上から高架となったにもかかわらず、大井町線は戦後になってようやく施工された。都市化が進んだこの地域は、高架用地の確保ができず、米軍の空襲によって空地確保が結果的にできた(建物疎開を含む)からだが、このようなケースは東急目蒲線(現 東急多摩川線)の矢口渡駅~蒲田駅間などにも見られる。
二葉四丁目(ふたばよんちょうめ)
「二葉」町は、戦時統制の中、町名・町会整理の流れの中で命名された瑞祥致命的なもので歴史的経緯はないが、住居表示施行後も「町」が外れて継承され、既に70年以上が経過し、これも立派な歴史と言える。交叉する道路は、荏原郡平塚村時代に大井町駅まで接続する主要村道として整備されたもので、この一帯の区画整理(耕地整理)の先がけであった。
馬込駅前(まごめえきまえ)
都営浅草線馬込駅に因むが、地下鉄駅であり外観上からはよくわからない。駅前と言うよりは駅上と言った方が適切だと思う(苦笑)。
[環七入口]松原橋(環七通り)
正確に言えば、環七通りとの立体交叉に交差点名標識はない(環七通り側にはある)。進行方向に環七入口と表記されるだけであるが、日本で最初の道路同士の立体交叉という栄誉のためにあえて記した。
馬込坂下(まごめさかした)
馬込坂という坂があったからではなく、何と馬込坂下の方が先という珍しい事例。由来は、第二京浜を通るバス停留所名に馬込坂下が採用されたことからで、意味合いとしては「馬込坂」+「下」ではなく「馬込」+「坂下」であり、第二京浜がこのあたりで地形的に尾根(馬込橋付近)から低地(内川の源流)に下るため、坂下に位置することによる。それが転じて、馬込坂(まごめざか)と称する坂となった。なお、坂名は「まごめざか」と濁るが、交差点名は「まごめさかした」と濁らない。また、由来となった馬込坂下バス停は、今年(2013年)3月23日に名称変更となり、立正大学付属立正中高前(りっしょうだいがくふぞくりっしょうちゅうこうまえ)とやたら長い名称となっている。
東急バスのWebサイト中の記事「停留所名称変更のお知らせ」を参照。
西馬込(にしまごめ)
先に馬込駅前という交差点名があったが、ここは西馬込駅前(駅上)であるにもかかわらず、単に西馬込と称している。これは設置された時期の違い(この西馬込交差点は比較的新しい)と考えるが、設置時期でルールが変わるというのもそれはそれで問題のような印象を持つ。
馬込中学校前(まごめちゅうがっこうまえ)
大田区立馬込中学校に由来する。興味深いことに、大田区立大森第十中学校との距離が50メートルほどしか離れておらず、中学校用地の確保に苦慮した様子がうかがえる。
本門寺入口(ほんもんじいりぐち)
近くにある池上本門寺が近いが、入口といってもいわゆる正門(男坂)側ではなく裏側にあたる。とはいえ、交差点には大きな案内看板があって、余程のことがない限りたどり着けないことに離らないだろう。
池上二丁目(いけがみにちょうめ)
池上本門寺交差点を約100メートルほど進んで、すぐにこの交差点となる。地域の主要道路との交差点なので致し方ないが、ちょっと間隔が短いのではないかと思う。
池上三丁目(いけがみさんちょうめ)
理由は不明だが、実は池上三丁目と称する交差点は、第二京浜の他にもう一つある。それも約300メートルほどしか離れていないばかりか、第二京浜と交差する道路が別の道路と交差するところで、要は同じ道路に二つの池上三丁目交差点が存在しているのだ。どちらも大田区が設置したようで、ローマ字表記が「Ikegami 3-chome」か「Ikegami 3」の違いだけで、実質同じ交差点名であることから、どちらか一方を別の名前に改称した方がいいのではと考える。
池上警察署前(いけがみけいさつしょまえ)
交差点名の定番、警察署前。しかし、交差点に警察署はなく、ちょっと離れたところにある(交差点から見える距離だが)。
千鳥一丁目(ちどりいっちょうめ)
馬込中学校前交差点からこの千鳥一丁目交差点までの間は、比較的短い距離(長くても300メートルほど)に交差点名が付与されているが、ここから次の矢口三丁目交差点までは主要道路との交差はもちろん、信号もそれなりにあるのに交差点名が付いたものは存在しない。さらにシンボルマーク的なものではなく、平板的な○○n丁目というものが続くのも無理矢理感があるような印象を受ける。
[矢口陸橋](環八通り)
環八通りとの交差点には、矢口陸橋が存在する。しかし、第二京浜にも環八通りのいずれにも交差点名は存在しない。
矢口三丁目(やぐちさんちょうめ)
千鳥一丁目交差点から多摩川を越えるまで2キロメートル弱あるが、この間にある唯一の交差点名(標識)がこの矢口三丁目交差点。
以上、第二京浜の交差点についてあれこれ語ってみた。といったところで、年末年始休み最初の記事はこんなところで。
中原口
昔第二京浜ができた当時には交通信号機が無く、ロータリーになっていたことが印象的でしたが、現在また見この方式が見直されてると言う記事を読みました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/12/29 00:11
馬込中学とわが母校大森10中が近いせいで、大森7中のほうが自宅から近いのに10中に行っていました。大森10中では馬込中学のことを裏の学校と言っていました。馬込中学も10中のことを裏の学校と呼んでいましたが。
今となっては大森7中などの大森が大森区のことを示していると思っている人は少ないでしょう。
投稿情報: デハ3300 | 2013/12/29 00:21
>デハ3300様
「大森10中」懐かしいです!教育実習に2週間通いました。
長原付近からだと、どうやっていったのか、今では全く覚えていなくて……
バスを使ったような記憶があるのですが。最短距離方法はどうだったのでしょうか。
中学校名の「大森」シリーズありますよね。「荏原」シリーズもあり、当時あった参考書名とひっかけて「バラシリーズ」と呼ばれていました。(旺文社?)不名誉なことに(涙)バラシリーズは、「レベルが低い」学校のように、高校では言われておりました。(当時の11群デス)
ともに、「大森区」「荏原区」から来る校名、なんですよね?
投稿情報: りっこ | 2013/12/29 08:19
りっこさま
11群ですか(HかMかKですな)?私は14群です(あ、武蔵小山の方ですね)。私の友人ご存知かもね?二国沿いのバス停か、学研前を通るバスルートですかね?道々橋経由だったかな?地下鉄の西馬込から歩いてくる先生もいました。そうそう力道山の家もあのあたりだったかな?大田区には蒲田シリーズもあったような?意外に学校名って旧地名のままが多いですね。道塚とか桐里とか。。ちょっと話がローカルですな。
投稿情報: デハ3300 | 2013/12/29 23:52