東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第16回目となる今回は、荏原郡世田ヶ谷村をとりあげる。これまで、現在の品川区(品川町、大崎村、大井村、平塚村)、目黒区(目黒村、碑衾村)、大田区(大森村、入新井村、池上村、馬込村、調布村、蒲田村、羽田村、六郷村、矢口村)を取り上げてきて、ようやく残るは世田谷区(世田ヶ谷村、駒澤村、玉川村、松澤村)にあたる村々を残すのみとなった。長いシリーズだが、あと4回ほどお付き合いいただきたい。
では、いつもどおり第一次案から見ていこう。
世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村(飛地字新町北裏甲乙・埋谷・下町・羽根木丙・供養塚のうち用賀道以東を除く)+ 経堂在家村 + 弦巻村 + 赤堤村飛地字栗原・字本村 + 松原村飛地字松原宿 + 瀬田村飛地字横根台
代田村 = 代田村 + 池尻村 + 若林村 + 下北澤村 + 太子堂村 + 三宿村
これまでの村々でも飛地はそれなりにあったが、現在の世田谷区に相当する荏原郡内の村々も多い。さらに、飛地以上に厄介なのは、合併村として案に上っていたものがその次の案では消えてしまうということが多いのだ(これまで見てきた中では入新井村が第二次案で消滅し、その後復活するが、それが唯一のもの)。世田ヶ谷村となる区域には、第一次案では世田ヶ谷村の他に代田村が設定されていたのである。世田ヶ谷村は、他の大村同様に各地に飛地を多く抱えており、被合併村とならない飛地部分は除かれた。これに組み合わされるのは隣接する経堂在家村と弦巻村の3村合併。代田村は小さい村々の6村合併であった。だが、代田村は第二次案で消滅する。
世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村(飛地字新町北裏甲乙・埋谷・下町・羽根木丙・供養塚のうち用賀道以東を除く)+ 経堂在家村 + 弦巻村字細谷戸・字勝光院下・八幡脇(黒駒道西北)+ 赤堤村飛地字栗原・字本村 + 松原村飛地字松原宿 + 瀬田村飛地字横根台 + 池尻村 + 若林村 + 太子堂村 + 三宿村
代田村を構成していた6村のうち、池尻村、若林村、太子堂村、三宿村の4村が世田ヶ谷村に合併となり、残る2村は北澤村へと合併され、消滅したのであった。さらに、弦巻村は駒澤村へと編入替えとなり、世田ヶ谷村内の飛地のみが残ることとなった。そして最終案では、さらに大きな変化となる。
世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村(飛地字新町北裏甲乙・埋谷・下町・供養塚のうち用賀道以東を除く)+ 経堂在家村 + 弦巻村字細谷戸・字勝光院下・八幡脇(黒駒道西北)+ 瀬田村飛地字横根台 + 池尻村 + 若林村 + 太子堂村 + 三宿村 + 代田村 + 下北澤村 + 上北澤村 + 赤堤村 + 松原村
第二次案で第一次案の代田村のうち4村を合併したが、最終案では残る2村も含め、第二次案における北澤村を丸ごと合併する案となった。第一次案にあった代田村、北澤村をすべて併合したため、実に11村合併というとんでもない数の合併となった。世田ヶ谷村がこのように拡大していった理由は、荏原郡内において最大の村落となるためであったのだが、当然周囲の村々や合併の対象となる村々からは反発の声が上がってくる。内務大臣への諮問以降も陳情が繰り返され、ついに明治22年(1889年)3月1日、特例として赤堤村、松原村、上北澤村の3村を世田ヶ谷村から分離独立させるという答申を内務大臣に追申し、ついに施行時においてこの3村を分離させる形、即ち、
世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村(飛地字新町北裏甲乙・埋谷・下町・羽根木丙・供養塚のうち用賀道以東を除く)+ 経堂在家村 + 弦巻村字細谷戸・字勝光院下・八幡脇(黒駒道西北)+ 赤堤村飛地字栗原・字本村 + 松原村飛地字松原宿 + 瀬田村飛地字横根台 + 池尻村 + 若林村 + 太子堂村 + 三宿村 + 代田村 + 下北澤村
となったのである。最終的には8村合併にとどまったのであった(荏原郡下では、池上村が最大の10村合併)。もし、仮に11村合併で世田ヶ谷村が成立していたならば、面積では荏原郡最大の村であるのはもちろん、その後の展開も大きく変わったことだろう。といったところで、今回はここまで。
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