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2013/02/18

コメント

XWIN II 様
神奈川県との境界線の変更が行われていますが、やはり多摩川の流れが洪水によりしばしば変化した結果でしょうか。上流にも下野毛と言う町名が川崎市側にありますが、随所に河跡を示すような道路が残っている様に見受けます。下丸子の光明寺池もかっての多摩川の名残だと言われていますが、有名な矢口の渡しも諸説があるようですね。洪水と言えば何年か前に狛江市で住宅が流されたことがありますので、また集中豪雨が降らないとも限りませんね。

「矢口渡」跡として多摩川大橋そばの河川敷にひっそり掲示されてます。近くの古老に言わせると、昭和30年ころまで最後の農家が川崎の田畑の耕作に向かうため船着場があった由。その位置は掲示版の位置よりやや川上だそうです。最も、古老も新田義興時代の渡しは新田神社そばだったんじゃないかな?と思ってるそうです。

コメントありがとうございます。
現在の多摩川は、河川氾濫を繰り返した結果の流路であって、中世の頃は今とはまったく異なった海岸線及び河川線だったことは間違いありません。
新田神社の裏手には自然堤防が残っており、ここが旧河川に面していたことは確かです。どこが矢口(ヤマトタケルの)だったのか、矢口渡だったのかは議論の余地はありますが、伝承が残るというのは何らかの理由もあったと思うのです。

木造院電マニアさま、みなさま

その狛江の多摩川の堤防が決壊したそばに住んでいます。たしか高校2年か3年の時でした。多摩川の流路は古い地図を見ると今とは違うのは明らかですしその証拠として、神奈川県側の河原も一部狛江市の行政地域になっています。また東京側でも狛江の付近は神奈川県に属するところがあります。小田急のすぐ上流は、神奈川県川でも狛江市の行政区域です。30年くらい前?(年代は定かではない)までは狛江市に宿河原という町名がありました。いまは駒井町ですが。。

デハ3300様
もともと律令制度での国名は川崎市となった橘郡は、横浜市の港南区等を含む神奈川県の東側と同様に武蔵の國に
属していたので、行政区域としては明治の初め以前は同じであったせいもあるのでしょう。宿河原の駅名が南武線にもあり、古い話で恐縮ですが戦争中食料の買い出しに行った記憶があります。中学時代に先生が、多摩川も羽村の堰で大量の水道水を取り込んでいるので大きな洪水は無いだろうと言っていましたが、温暖化のせいか予測不能なゲリラ豪雨に襲われるようになりましたね。

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