東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第17回目となる今回は、荏原郡松澤村をとりあげる。当初予定していた順とは異なるが、前回の世田ヶ谷村と関連が強い松澤村であるので、今回とした。では、いつもどおり第一次案から見ていこう。
北澤村 = 上北澤村 + 赤堤村(飛地字栗原・字本村を除く) + 松原村(飛地字松原宿を除く)+ 世田ヶ谷村飛地字羽根木丙
第一次案において、松澤村に相当する部分は北澤村とされていた。しかし、被合併村には上北澤村だけがあり、もう一方の下北澤村は代田村を構成するようになっていたので、これを北澤村とするには反発があった。そこで、第二次案では、
北澤村 = 上北澤村 + 赤堤村(飛地字栗原・字本村を除く) + 松原村(飛地字松原宿を除く)+ 世田ヶ谷村飛地字羽根木丙 + 代田村 + 下北澤村
代田村を構成していた6村のうち、代田村と下北澤村を新たに加え、名実共に北澤村とするに相応しい組み合わせとなった。このまま行けば、おそらく北澤村で決まりだとなっただろうが、最終案ではそうはならなかった。
(消滅。すべて世田ヶ谷村へ。)
何と、北澤村に所属する予定の5村はすべて世田ヶ谷村へと合併することとされてしまった。第一次案では3村合併、第二次案では北澤村としての名目を保つ5村合併となったのに、最終案では北澤村はなくなりすべて世田ヶ谷村へと編入。さすがにこれは猛反発となり、中でも第一次案で北澤村を構成していた上北澤村、赤堤村、松原村の3村は激しい反対運動が巻き起こった。その結果、特例として内務大臣に答申後に変更が認められ、施行時には、
松澤村 = 上北澤村 + 赤堤村(飛地字栗原・字本村を除く) + 松原村(飛地字松原宿を除く)+ 世田ヶ谷村飛地字羽根木丙
となったのであった。第一次案と異なるのは合併後の村名で、北澤村ではなく松原村の「松」と上北澤村の「澤」を合成した松澤村とした。これにより、第一次案で問題となった村名問題にも決着をはかったのである。その後、東京市編入の際は、分離・合併で揉めに揉めた世田ヶ谷町(村)ほか2町とあわせて世田谷区を構成するが、興味深いのは世田ヶ谷村も含めてこの松澤村も旧村(大字)名が、住居表示後も町名としてすべて残されていることである。それだけ個々の地域が大切にされているという証左だろうか。といったところで、今回はここまで。
XWIN II 様
松沢村
電話局名にもなった松沢村が合成語であったとは知りませんでした。京王電鉄の八幡山も以前は松沢であったように記憶しております、例の問題で住民の忌避にあって名前を変更したのだと羽根木町に住んでいたクラスメートが話していたことを思い出しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/20 10:08
その、中身は何も知らなくても、「松沢病院」というのは、小学校のころから、何となく皆の間に行き渡ったキーワードでした。「松沢」という名が、そういう経緯でついたこと、初めて知りました。ありがとうございます。
投稿情報: りっこ | 2013/02/20 22:00
コメントありがとうございます。
さて、松澤ですが、件の病院の存在が大きいのは疑いようのない事実ですね。土地のイメージというものが、何に依拠するのかという一例かと思います。あと、合成地名にしても読みやすさとか、既存の名称に近いとか、そういった感覚が当然ですが認められます。碑文谷と衾で、碑衾とするか衾碑文谷とするかというのはともかく(正直どっちもどっちかと…)、上北澤と松原の組み合わせでは松澤のほかにも北原とかがあるわけで。単に合成地名であると片付けるのではなく、どのようにしてその組み合わせとなったのかのルーツも時代によってだと思うのです。
投稿情報: XWIN II | 2013/02/24 07:58
明治以前も世田谷って複雑だよ。他もそうでしょうが。
豪徳寺の井伊家の墓の前に行ってみるといいよ
どこの家のお墓があるか?
井伊下屋敷が明治神宮でしょ。どの家が杜を育てたか?
繋がるんだな
投稿情報: 優雅に | 2014/04/15 01:33