東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第14回目となる今回は、荏原郡六郷村をとりあげる。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。
八幡塚村 = 八幡塚村 + 雑色村 + 町屋村 + 古川村 + 高畑村
ご覧のとおり、5村の合併で、最も有力な八幡塚村の名前をそのまま合併後の村名として採用している。実際、八幡塚村は東海道筋に面しており、飛地も多く抱えた有力村であった。だが、これまで見てきたように、第二次案では被合併村のいずれでもない名称が採用されるケースが多く、ここでも同様な形となった。
六郷村 = 八幡塚村 + 雑色村 + 町屋村 + 古川村 + 高畑村
第二次案では、八幡塚村から六郷村へと変更になった。六郷とは、このあたり一帯の村々を指す広域俗称そして領名(六郷領)であり、ちょうどこのあたりの多摩川を六郷川とも称した。また、東海道の六郷の渡しからも古い地名であることは確認できよう。では、六郷とは何を指すか。6つの村(郷)を指すとすれば、ここに出てくる六郷村を構成する村は5つしかない。残る1つは何かといえば、八幡塚村に所属していた出村であり、八幡塚村の飛地のうち、最も大きくまた東海道筋に面した地域だった。出村の名は公式地名でないため、ほぼ消滅してしまっているが、京浜電気鉄道(現 京急電鉄)の出村駅がかつて存在したことから、戦前の地図で出村がどのあたりだったか確認できる。また、大田区本羽田一丁目に出雲小学校があるが、この小学校名は「出村」に由来し、東京市編入時に成立した東京市蒲田区出雲町という町名は、「出村」ではあんまりだというので美称として「出雲」が採用された際の命名である。これに由来して小学校名となったのだった。(なお、大田区本羽田三丁目に出雲中学校があるが、こちらは出村の場所とは全くかけ離れている。)
最終案も第二次案と変わらず、
六郷村 = 八幡塚村 + 雑色村 + 町屋村 + 古川村 + 高畑村
であり、施行も
六郷村 = 八幡塚村 + 雑色村 + 町屋村 + 古川村 + 高畑村
とまったく変わることはなかった。理由としては「六郷」としての一体性もあるが、多摩川に区切られていたことも大きいだろう。もっとも、現在の神奈川県川崎市にあたる部分にも「六郷」の領域は飛地として多数あった。一例として、川崎市川崎区にある味の素の工場は、明治末期まで八幡塚村の所属であり、川向こうの飛地であったため、公害工場ではないかと恐れられていた味の素に売られたのである。このように、飛地であるため企業に売り渡されるというケースは結構多く、企業・工場進出と飛地との関係を探ってみるのも興味深いだろう。
さて、新たに誕生した六郷村だが、それらを構成した村々は大字として生き残った。大字八幡塚、大字雑色、大字町屋、大字古川、大字高畑、そして大字出村である。出村は八幡塚村の飛地でありながら、一つの大字を構成するほど影響力の高い地域だったのである。そして、東京市編入時に蒲田区に属し、六郷町(村)の大字はそのまま蒲田区の町となり、それぞれ六郷町、雑色町、町屋町、古川町、高畑町、出雲町と名乗った。ここで、かつてはもっとも有力村だった八幡塚の名は消えた。出村が出雲に変わったのは先にふれたとおり。
しかし、昭和12年(1937年)にこれら6町は改名される。現在とは若干異なるが、6町の領域とは無関係に東六郷一丁目~四丁目、南六郷一丁目~三丁目、仲六郷一丁目~四丁目、西六郷一丁目~三丁目に整理・統合され、わずかに古川町の北一部だけが残る格好となった。せっかく改名した出雲町は、わずか4年3か月で消滅し、伝統あるその他4つの町も消滅した。辛うじて、雑色は駅名に、高畑は小学校名に、古川はこどもの家に残るが、町屋は残っていない。
といったところで、今回はここまで。
友人の一人の職場がかつて、仲六郷にありました。大田区仲六郷1-6-27に、「町屋児童公園」があります。
投稿情報: りっこ | 2013/02/17 20:29
コメントフォローどうもありがとうございます。
マンションを建築した際の代償措置として設けられた件の児童遊園ですが、あの場所は町屋ではなく「出村=出雲町」の場所だったのです。しかも半世紀ぶりに無理矢理復活させた感が強いので継承されていないと看做しています。
投稿情報: XWIN II | 2013/02/18 06:34
ありがとうございます♪
その名前を知っていたので、何げにコメントしたのですが、そういう背景があったのですね。
それで、実は改めて驚きもあります。
というのは、そもそも児童公園というのは、「わんぱく」とか「なかよし」とか「ゆうやけ」というようなネーミングをされることが結構あり、大田区の児童公園も、これらの名前の児童公園があります。片方で、「南六郷一丁目児童公園」というように、住所表示まんまのネーミングの児童公園もあります。
さて、この「町屋児童公園」ですが、最寄の児童公園は二つあり、「仲六郷一丁目児童公園(住所まんま)」と、「仲一みどり児童公園」で、ともに仲六郷一丁目に存在しています。
なのに、二つは、「仲六郷一丁目由来」のネーミングなのに、町屋だけが、異質です。
さわやか児童公園でもなく、こうま児童公園でもなく、「町屋児童公園」
これは、何かこの名づけをした人の意図があるんじゃないかと。
違っているかもしれませんが、こういうふうに考えるとおもしろいなぁと思いました。
投稿情報: りっこ | 2013/02/18 13:33
あと。
町屋跨線橋(跨線人道道かな?)も、「町屋」の名前がついています。
もっとも、1975年架橋なんで、新しくてダメですかね(;^_^)
投稿情報: りっこ | 2013/02/18 17:08
コメントありがとうございます。
まず、JR(国鉄、省線、院線)の跨線橋や隧道、踏切名などには古い名が保存されていることが多く興味深いものです。町屋のそれも跨線橋の架け替えとか、それ以前にあった踏切などの名が継承された可能性が高いのではないでしょうか。少なくとも公園名等のノスタルジー的なものではないと見ます。
そして公園名についてですが、時代によって流行廃りがありますね。住居表示によって古い地名が塗りつぶされた頃(戦前の価値否定による伝統破壊。同様の例としては明治時代の江戸期否定による伝統破壊)、公園名等は住居表示によって新たに採用された名称になるパターンが流行(というかルール)でした。ですが、最近は公園のベンチにも命名権が付与される時代であって、公園の土地を寄附するなどで好き勝手に公園名が付与できる時代になっています。寄付者のノスタルジーによって古い地名が採用されるのはこのような背景があるわけですね。
投稿情報: XWIN II | 2013/02/19 06:28
ちょっとどころか大幅に話題がそれますが(いつものように)小学生の時、糀谷から転校してきた生徒がいて(1964年ころ)M君というのですが(これは後で重要なキーワード)六郷川と多摩川のことを言っていました。私たち久が原近辺の人は多摩川というのですが、そのころは変なの?と言っていましたが。あとになって、高校生の頃、河口からどこまでが六郷川で何処からが多摩川なのか調べました。JRの多摩川/六郷川に架かる橋梁はJR東日本六郷川橋梁なのですね。その少し上流の第2京浜国道に架かる橋は、多摩川大橋。どうも2国とJRのあいだくらいで変わるようですよ。でその糀谷から転校してきたMくん一家は1964のオリンピック前に漁業権を放棄した海苔漁師の一家なのでした。3家族ぐらいいたと思います。実はインドにいるのでなかなかインターネット事情が悪くアクセスできません。
投稿情報: デハ3300 | 2013/02/21 10:44