東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズ第9回目となる今回は、池上村をとりあげる。これまでのように、まずは第一次案から見ていこう。(前回の第8回目のリンクはこちら)
池上村 = 下池上村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村 + 堤方村 + 市野倉村
当時、池上村は2村に分かれており、かつては当然1村だった。池上の由来は様々語られるところであるが、古の地名に確固たる理由を与えることは困難であるというのが私のスタンスであって、これまでもこうだと決めつけてはこなかった。だが、池上についてはやはり「池」に由来すると思う。ただ、それは今日の洗足池(千束池)とは特定しない。洗足池は水路をせき止めたいわゆる溜め池の類であり、せき止めていた箇所は中原街道と密接な関係を持つからだ。
中原街道の成立は東海道よりもはるかに古く、旧東海道(池上道ほか)よりは新しいとされている。一方、池上の名は確実に鎌倉時代よりも以前からある(日蓮入滅の地が池上氏の館だったことを思い起こせば…)。また、古記録によれば「大池」と称する広大な池の存在も忘れてはならない。とどのつまり勉強不足で結論として何ら得るものはないのだが、様々な史料を考慮に入れれば「洗足池とは特定できないが池に因む」と言っていいのではないかと考える。
と、まぁ池上についての話はこの辺にしておいて、要は今日にいう大田区池上一丁目~八丁目のあたりが本来の池上なのではなく、今日の上池台と称するあたりが本来の池上であったということだ。池上の名が南方に下りてきたのは、池上本門寺とそして東急池上線の池上駅によることが大きい。池上駅は池上電気鉄道が開業した時にはときには、確かに荏原郡池上村に存在したが、大字徳持に所属していた。そう、この地は明治22年(1889年)より以前は池上村ではなく徳持村だったのである。
さて、続いては馬込領桐ヶ谷村についてふれておこう。荏原郡には桐ヶ谷村が2つあり、一つは以前に取り上げた荏原郡大崎村に統合された桐ヶ谷村があり、この桐ヶ谷村と識別するためにこちらの桐ヶ谷村に江戸期の領名だった馬込領と付したのである。よって、正式には馬込領桐ヶ谷村ではなく、便宜上、このように表記されたに過ぎない。
では前振りが長くなったが、第二次案ではどう変わったのか見てみよう。
池上村 = 下池上村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村 + 堤方村 + 市野倉村 + 新井宿村
変更点は、新たに新井宿村が追加になったことである。荏原郡大森村の回でもふれたように、新井宿村は隣接する不入斗村と統合する予定だったが、この両村は第二次案では分割され、隣接する大森村と池上村に合併されることとなったのだ。だが、最終案では再び元に戻る……
池上村 = 下池上村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村 + 堤方村 + 市野倉村 + 池上村 + 雪ヶ谷村 + 道々橋村 + 石川村
……ことはなく、新井宿村が切り離された代わりに、新たに池上村、雪ヶ谷村、道々橋村、石川村と4つの村が加わった。ここで疑問に感ずるのは、新たに加わった池上村である。下池上村(池上本門寺のある場所)ほかが合併する新村に「池上」村と称しておきながら、従来の池上村はここに含まれていない事実である。では、第二次案まで池上村はどこに属していたのであろうか。それは馬込村であった。詳しくは次回取り上げる予定の馬込村の回で取り上げるが、本来の池上村は馬込村などと合併して池上の名を失うばかりか、隣接する下池上村を中心とした池上村にその名を奪われることとなっていたのである。さすがにこれは地元で猛反発があっただろう。その結果か、最終案では池上村は馬込村との合併から外れ、下池上村などとの合併となって池上村に属した。さらに、池上村と関係の深い、雪ヶ谷村、道々橋村、石川村もあわせて異動となった。これにより、池上村は南北に細長い形となったのである。
これだけ大きな異動となったからか、最終案から実際の施行でも構成は変わることはなかった。
池上村 = 下池上村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村 + 堤方村 + 市野倉村 + 池上村(池上裏道以東を除く) + 雪ヶ谷村 + 道々橋村 + 石川村
しめて10村合併。荏原郡内でこれだけ多くの村々を統合したものは他にない。これは、最終案の際に池上村、雪ヶ谷村、道々橋村、石川村と4つの村が加わったことによるが、理由はおそらく馬込村と一緒になりたくなかったというよりも、池上村と下池上村(合併後の池上村の中心)との複雑な関係に因るものと見る。しかし、馬込村と池上村の合併を目論んだ理由は、馬込村の飛地状態を解消するためであり、原則飛地を禁じていたことから馬込村が単独で起立するということは、飛地状態はそのままとなり具合が悪かった。そこで、馬込村の飛地状態を解消するために、馬込本村と千束をつなぐ形となるよう、池上村の一部である池上裏道以東の地を馬込村に編入した。一方、代替措置として池上村には馬込村から千束池(洗足池)の水面部分を編入。これは、現在も大田区における千束特別出張所と雪谷特別出張所の管轄境界線として生き残っている。(参考記事:「昭和初期まで、地元にとっては洗足池でなく千束池だった」)
何はともあれ、これにより新たな池上村が成立するが、旧池上村だった区域は新たな大字名として、当然のごとく大字池上を名乗る。荏原郡池上村大字池上の誕生である。だが、昭和7年(1932年)10月の東京市合併時には、東京市大森区上池上町となる。池上ではなく、上池上となってしまったのだ。一方、下池上村は荏原郡池上村大字下池上となった後、東京市成立時に東京市大森区池上本町となった。下池上町ではない、池上本町である。上池上町と池上本町ではどちらが本当(ホンモノ)の池上かといえば、歴史的には上池上町の地であるが、町名としてみれば池上本町の方だと思ってしまう。ましてや池上本町の地に池上本門寺や池上小学校が、さらには旧池上町役場があったとなれば…。このほか、徳持村だった大字徳持の地も東京市成立時に東京市大森区池上徳持町と、歴史的に池上と無縁である地域にも池上という名が冠せられた。これは池上駅がこの地にあったことが大きいのは先にふれたとおりである。
そして現在。上池上町だったところの多くは上池台を名乗り、上池上は町名として存在せず、バス停名や交差点名等、ごく一部に形跡を残すに過ぎない。このような池上という地名の異動のきっかけは、この明治22年(1889年)の大合併にあったのだと思いつつ、今回はここまで。
XWIN II様
毎回地域別に町村の合併統合の経過を説明して頂き大変参考になります。
私のような大正末期に生まれたものにとっては、悲しいかな旧町名を聞いた時にその光景が直ちに頭に浮かびますが、新町名では丁目と地域の関連が地図を見ないと分かりません。
例えば上池台でも、芸能人や有名人が住んでいた池上洗足町などは、聞いただけでイメージが湧きます。このことはまた港区と言う地域の特殊性を無視した合併で町名を聞いただけでは直ちにイメージが湧かないのも同様です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/12 12:24
「池」にこだわりたくなってしまうのですが、方や「池上」があり、世田谷区に「池尻」があります。「上」と「尻」この間に、大昔、大きな池があったのでしょうか。これはもう、洗足池などではない、大きな池ですよね。地名にともに「池」がついていることから、何か、あったんだろうなぁなんて、妄想たくましくしてしまいます。
【当コメントは別記事に付けていただいたものですが、おそらくこちらの記事だろうということで異動させていただきました。】
投稿情報: りっこ | 2013/02/13 07:17
逆もまた真なり、ということで近年の方の場合ですと、現行町名でないとイメージがわかないというのもあるでしょうね。池上洗足町については、東京市合併以前から洒落た町名(区域名)に改称しようという運動があり、昭和6年(1931年)5月の耕地整理による字界変更の時にすったもんだがあって、近いうちに東京市に合併されるのだからと宥められ、区域変更のみで字名は千束のまま改称を見送りました。東京市合併時に晴れて池上洗足町となったわけです。荏原郡池上町大字道々橋字千束、東京市大森区池上洗足町。同じ場所、同じ家、だったとしてもこの両地名を比較すると…。
そして「池」。私としては「巨大な池」があった(京都の南の巨椋池のような)というよりは、武蔵野台地に入り組んだ谷戸地形から派生した多数の「池」に対して「上」だったり「下」だったり、あるいは「尻」だったり「元」だったりと位置関係に基づく「字」が合成されて得られた地名と見ます。実際、江戸期の絵図を見ますと、多数の池が散在していることが確認できます。地形的に大きな池が形成されるのは難しいのではないか、と。
投稿情報: XWIN II | 2013/02/13 20:12
XWIN II 様
池上洗足町の経過興味深く拝読致しました。町名には古い友人や親しくしていた人々との楽しい思いでも込められているので、寂しさを感じることもありますが、これも時代の変化として受け止めなければ成らないかも知れません。
江戸は井の頭や妙法寺池のような武蔵の台地の湧き水で形成された多数の池を貴重な水源としていましたので、池の付く地名が残ったのでしょう。宅地化と道路の舗装で多数の池が消滅しましたが、小学生の頃夏休みの課題として立会川の水源の調査で碑文谷公園の池迄たどり着いたことを思い出しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/02/13 23:55