田園調布と言えば、実態はともかく高級住宅地のブランドとして名高いが、巷間よく言われることとして「田園調布と名乗っていても本当の田園調布は駅の西側の一部」とか、「田園調布本町や田園調布南はにせもの」とか、様々な話を耳にする(あるいは文で見たりする)。だが、意外にと言っては何だが、田園調布の歴史を辿っていけば「本当の田園調布」がどこを指すのかというのはあまり知られていない。そんなわけで、今回は田園調布についてエリアという視点で語っていきたい。
まず、現在の田園調布を町域で確認しよう。東京都外にあるエセ田園調布(モドキを含む)は論外として、田園調布は東京都大田区と同世田谷区にまたがって存在する。大田区の方は田園調布一丁目から五丁目まで、世田谷区の方は玉川田園調布一丁目と二丁目である。この町名は住居表示制度が始まる前から存在し、この一帯が東京市に編入される1932年(昭和7年)10月1日時点から、この町名は続いている。つまり、今年(2012年)で80年を数える、それなりの長い歴史を持つ町名である。
では、それ以前はというと公式の町名(字名)としては田園調布という名は存在しない。よって、公式には1932年(昭和7年)10月1日に誕生した町名だとなるのだが、それ以前にはまったく田園調布と呼ばれていなかったかと言えばそんなことはない。今でも駅名として存在する東急電鉄の田園調布駅は、東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄の調布駅が、大正15年(1926年)1月1日をもって田園調布駅に改称しており、公式の町名よりも先に駅名が先行していたのだ。
調布駅が田園調布駅へ、というよりも調布駅でまずかった理由は、東京府下に京王電気軌道(現 京王電鉄)に既に調布駅が先行してあり、他社線との連絡切符を交付するのに紛らわしいと言うことで改称を迫られていた。目黒蒲田電鉄の他の駅名でも、小山が武蔵小山へ、新田が武蔵新田へと同じような理由で同時代に改称されていたが、同様の武蔵調布とならなかったのはもう一方の調布駅もかつての武蔵国にあったからだと考える。よって、武蔵でない別の識別名を付加する必要があった。
一方、目黒蒲田電鉄の出自は、そもそも田園都市株式会社の分譲地に対する鉄道旅客輸送を実現する目的で設立されており、田園調布駅周辺は田園都市株式会社が展開する最大の分譲地エリアを誇る「多摩川台」分譲地の中心(字面の意味での中心ではない)であった。「多摩川台」としたのは、風光明媚な多摩川を南西に見下ろす絶景地であったからだが、田園都市株式会社によって先行分譲された「洗足」分譲地において、自ら、そして周辺住民から「田園都市」と名乗った(呼ばれた)ことから、「多摩川台」分譲地においても「田園都市」と名乗るようになる。だが、興味深いことに「多摩川台田園都市」とはならず「調布田園都市」となった。想像でしかないが「多摩川台田園都市」では語呂が悪く、分譲地エリアの中心にある駅名に因んで「調布田園都市」を採用したと見る。そして元祖「田園都市」も、次々と田園都市が誕生する過程で「洗足田園都市」を名乗った。
調布駅の周辺に展開する田園都市だから「調布田園都市」というわけだが、分譲地の住民が増えていくに従い、荏原郡調布村の人口バランスが崩れ、旧来の住民と新興住民との比率が一気に縮まっていく過程で調布村は区制を採用する。ここにいう区制とは、東京特別区とも政令指定都市における行政区とも異なる。現行の地方自治法にも残っている町村レベルでの区制である。要は人口が増えたことで、町村を区毎に分割し、各々代表を選出し村の自治を進めていくようにしたのだった。大正14年(1925年)8月、調布村は区制によって5区にわけられた。以下のとおりである。
- 上沼部
- 下沼部
- 嶺
- 鵜ノ木
- 田園調布
荏原郡調布村は、明治22年(1889年)の市制町村制によって4つの村が統合されて調布村となった。その4つの村とは、
- 上沼部村
- 下沼部村
- 嶺村
- 鵜ノ木村
である。かつての4村は調布村の大字となり、調布村としての結合よりも旧村単位、つまり大字単位でのつながりが大正時代に入っても残っていた。なので、区制採用時にもその単位は大字、つまり旧村単位であったのだが、新たに5番目の単位として田園調布が誕生した(追加された)のである。この田園調布とされた区(エリア)は田園都市株式会社の分譲エリアと完全に一致していた(この頃は荏原郡玉川村=現 世田谷区の方はまったく分譲されていなかった)。そう、調布田園都市の新興住民は完全に大字単位のつながりから外されたのである。これが田園調布という名の初出と位置づけられるのだ。
では、調布村は区制採用時に田園都市株式会社の分譲エリアをなぜ田園調布と名付けたのだろうか。大字(旧村)単位から分割(排除)した理由は自明だが、田園調布という区名採用は自明とは言いにくい。分譲地名は「多摩川台」であり、自称は「調布田園都市」であった。駅名もまだ調布のままである。「調布田園都市」が田園調布に最も近いが、「田園」と「調布」が倒置となった理由が判然としない。ともあれ、このように歴史を辿ってくれば、田園調布とは田園都市株式会社が分譲した多摩川台住宅地(調布田園都市)のエリアに相当することがわかる。
このように、初めのうちは調布村から爪弾き扱いを受けた田園調布区だが、東京市に合併される頃には東調布(荏原郡調布村は町制施行で東調布町となっていた)という名を採用しないだけでなく、沼部という由緒ある名も捨て、大字上沼部と大字下沼部のすべてが田園調布(一丁目から五丁目)と改称された。ブランドとなった田園調布という名を旧大字単位で丸ごと採用し、田園都市と無関係なところ(大半がそう)までもが田園調布となったことで、今に語られるような「とても田園調布とは思えない」という事象は、1932年(昭和7年)10月、既に80年前から発生していたのだった。なお、世田谷区の玉川田園調布は、大田区(当初は大森区)ほど田園調布エリアを拡大していない。完全に一致しているわけではないが、概ね田園都市株式会社の分譲地エリアと重なっている。
上図は、現在の田園調布エリアと田園都市株式会社が分譲した多摩川台住宅地(ただし、最末期の現多摩川駅周辺を除く)エリアを比較することを目的として作成した。赤い線内が現在の大田区田園調布一丁目~五丁目、田園調布本町、田園調布南、及び世田谷区玉川田園調布一丁目・二丁目。黄緑色の線内が多摩川台住宅地を表す。田園都市株式会社の分譲地の一部は、上図から確認できるように玉川浄水場や多摩川台公園の一部になっているところがあり、分譲地として用意されたものが必ずしも分譲されたわけではないことがわかる。
戦後になって、大田区の田園調布エリアは地番整理を行う。田園都市は分譲地番号を採用していたが、それは公式のものではなく地番は旧来のもの(区画整理前のもの)がそのまま残っていたため、地番は飛び番となり錯綜していた。これを改めるために地番整理(改正)と町丁目を整理し、田園調布一丁目~同七丁目へと再編された。ところが、数年後に住居表示に関する法律が成立し、新たに住居表示番号が採用されることとなった。せっかく地番整理を行ったばかりなのに、再び住居表示を行うなど愚の骨頂との批判もあったが、1970年(昭和45年)に田園調布エリアも住居表示が実施され、新たな番号が振られることになった。それどころか町名再編までも行われ、田園調布一丁目~同七丁目は、一丁目が田園調布南、二丁目が田園調布本町、三丁目が田園調布一丁目、四丁目が田園調布二丁目、五丁目が田園調布三丁目、六丁目が田園調布四丁目、七丁目が田園調布五丁目となった。混乱の極みである。しばらくの間、田園調布エリアでは郵便物の誤配が続いたという。
以上、田園調布についてエリアという視点から、簡単に歴史を追ってみた。住居表示では田園調布を名乗るのは一丁目から五丁目まであるが、真の田園調布エリアはと言えば、田園都市株式会社の分譲地、多摩川台住宅地、調布田園都市となるのである。といったところで、今回はここまで。
2012年9月2日追記
図と絵解きを追加。図を書く時間がなかったのでようやく追加できた…。
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