今回は、歴史全体を俯瞰するのではなく、ある一点(一時期)のみに着目した。それはタイトルにも記したように、池上電気鉄道が最も輝いていた時期──いや最も将来性のある時期に、経済専門紙である「中外商業新報」(大正15年3月13日付)でとり上げられた記事をご紹介しよう。
読みにくいので、現代仮名遣いと漢字を現在のものに置き換え、かつ適当なところで読点等追加し、改行したものを以下に引用して示す。
高柳金融会社の直属下に経営され、而して旧臈高柳社長の失脚と共に、株価も亦低落。一時、遂に十円台に陥落するに至った池上電鉄株が、最近頓に買気を強め、その浮動株の稀薄なると相俟って、俄に台頭し諸株低迷裡にあって、連騰連騰四十円搦みの高値に飛躍するに至った事は、特に市場一般の視聴を集めた事言う迄もない。
元来当社は馬車鉄道営業の目的を以って、大正六年資本金四十万円で創立されたのであるが、大正十二年高柳社長就任と共に電化計画の樹立となり、その間、数次の増資によって、現在の百八十五万円(金額払込済)とせられたもので、その営業区間は大森池上間を本線とし、一方、蒲田池上雪ヶ谷大崎五反田を経て目黒に至るを支線として、目下、蒲田池上雪ヶ谷大森間の乗客運輸をなし、その乗客は逐期三五割の増加を見て居るのであるが、如何せん高柳社長失脚と共に、第三期計画に属する雪ヶ谷五反田間の延長工事頓挫により、市郡連絡の便なく、為めに意の如き収益を挙げ得なかったのである。
而も越山社長の就任を見るに至っても、資金関係の不円滑依然たるものがあって、何等、積極方針の行われる事がなかった事は、当社株をして益々低迷裡に置かせて居たのであるが、最近に至り株価の急騰となったのは、越山氏に代って川崎系を背景に五島邦彦(著者注:正しくは後藤国彦)氏その他同系の重役が就任、その衝に当る事に決定したからに他ならない。
蓋し川崎系が東京近郊が大都市計画着手と共に益々発展し、郊外電車事業の極めて有望なる処に着目するに至ったからで、高柳時代の第三期計画は、単線々路用地三万二千坪、買収費約百万円、電気予算四十万円、土木予算三十一万円、合計百七十一万円の予算が立てられて居たのであるが、川崎系の手に移ると共に復線計画を立て、尚お将来中野方面に延長の意あり、近く四倍増資を決行せんとする模様ありと伝えられ、既に川崎系より、一部資金の融通されて居る事実もある。
而も雪ヶ谷五反田間の開通を見んか、大崎五反田等市との接続に依って、その乗客は優に現在の十倍に増加を予想されて居るから、可なりの収益を挙げ得る訳で、それでなくとも近来郊外電車株の将来有望視されて居る折柄、川崎系就任により金融の道を得、積極拡張計画の樹立を見て、一般の買気付いて来た事は寧ろ当然というべく、而も市場に浮動株皆無の口実があるから、更に一般の高値を示現するに至るかも知れない。
というように、1926年(大正15年)3月13日時点で、池上電気鉄道株は1926年頭より3倍以上の値上げを記録し、軒並み株価が低迷する中、極めて目立つ存在であると報じられている。そして、その理由が川崎系(いわゆる川崎財閥)の重役が就任し、
- 単線から複線(記事中表記は復線)への移行。
- 雪ヶ谷~五反田間の開通。
- 中野方面への延長。
と積極拡張計画が行われ、4倍増資も行われる見込みからだとしている。実際、上に示した3つのプランはすべて着手され、唯一、中野方面への延長だけが国分寺線→奥沢線(新奥沢線)としてのみ中途半端になった以外は、すべて実現された。また、4倍増資については、1927年(昭和2年)5月26日には資本金を700万円まで増資したことから、高柳時代の185万円と比べれば約3.78倍と4倍には満たないものの、ほぼ見込み通りだとして間違いない。
そして、この記事が掲載された日から二週間後の1926年(大正15年)3月27日の臨時株主総会で、後藤国彦をはじめとする川崎系重役が就任することとなり、まさに「中外商業新報」の記事通りに話が進んだことになる。記者のその慧眼たるや、恐れ入ったとしかいいようがない。
では、他に記事中で気になったことを記しておこう。まずは、池上電気鉄道の出自についてである。記事には「元来当社は馬車鉄道営業の目的を以って、大正六年資本金四十万円で創立された」とあるが、実際は軽便鉄道法による特許申請を行っており、申請書中にも「軽便電気鉄道ヲ敷設シ一般運輸ノ業ヲ営ミ」とあるのだが、どうして記事では馬車鉄道営業の目的としたのか。確かに、特許申請前(明治末期)の計画には馬車鉄道とするプランはあったが、申請行為としては軽便電気鉄道としてである。また、内務省からの特許状にも「軽便鉄道ヲ敷設シ」とあるので、電気鉄道であることは疑いない。これはどういうことなのか。単に記者の勘違いとして片付けてもよいが、勘違いなら勘違いされるだけの理由があっても不思議ではない。もっとも、「その営業区間は大森池上間を本線とし、一方、蒲田池上雪ヶ谷大崎五反田を経て目黒に至るを支線として、目下、蒲田池上雪ヶ谷大森間の乗客運輸をなし」と、これまた勘違いしているので(正しくは大森池上間は本線であるが、池上から雪ヶ谷以降も本線であること。支線は池上~蒲田間のみ。また、乗客運輸は大森まで行っていない)、単に鉄道関係に弱いだけかもしれないが…。
そしてもっとも注目すべきは、先にも示した積極拡張計画の一つ「中野方面への延長」である。いくら川崎系の重役が就任するという記事であるにしても、まだ記事掲載時は越山社長体制であって、雪ヶ谷からの延長工事すら着手していない状況下に、既に中野方面への延長、言い換えれば城南環状線的な構想を持っていたとすれば、国分寺線(奥沢線、新奥沢線)の免許申請の経緯も改めて再検討が必要となる。
同新聞記事によれば五反田駅との接続により10倍の乗客の増加が見込まれると書かれていますが、これも御用新聞の提灯記事のように思われます。確かに業績は大幅に改善されましたが、建設費の償却に苦労したと東急五十年史に書かれていますが、開通後も単車運転されている写真がありますので若し10倍ならばとても捌ききれないことは確かだと思います。ついで乍ら、五島邦彦専務と書かれておりますが、たいした問題ではないにしても京成電軌の立て直しに成功した本人としてはライバルの名前と取り違われていい気分はしなかったでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/05/16 18:30