JTBキャンブックスシリーズには、興味深い本が多い。無論、すべてがいいというわけではなく玉石混淆であるが、今回「京王電鉄まるごと探見 100年の歴史・車両・駅・路線」を購入し、あまりよく知らない京王電鉄の歴史を楽しんで読んでいた。そして、52ページ目まで読み進めて、思わず「あっ!」と声をあげそうになった(自宅で読んでいたら間違いなくあげていただろう)。それはこの写真(図版)、「東京急行電鉄 路線図(昭和18年)京王電軌合併前」と絵解きが書かれたものを見たからである。
昭和17年(1942年)5月には、東京横浜電鉄は京浜電気鉄道や小田原急行鉄道を傘下におさめ、東京急行電鉄を名乗っており、この路線図には上に部分掲載したものからわかるように京浜電気鉄道の路線や、図には見えないが小田原急行鉄道の路線も含まれている。本書にはこの路線図の全体が載っているが、全体を載せると文字が小さくなりすぎ、部分を載せると文字は読めるが全体が見えなくなる。ここでは、文字が読める方が大事なので部分のみとした。
さて、前振りが長くなったが、もう今回のタイトルからおわかりのとおり、この路線図には「雪ヶ谷大塚」と記載されている。京王電軌の路線は未掲載であるので、昭和19年(1944年)6月より前であるが、昭和17年(1942年)5月以降であるだろう。絵解きでは何を根拠として昭和18年(1943年)としているかは本図からは不明だが、幅をとっても昭和17年(1942年)5月以降、昭和19年(1944年)5月以前に雪ヶ谷大塚駅と改称されたのは確実となる。
他に、作成時期の参考になりそうなものは、東横線の「青山師範」と「府立高等」である。青山師範駅は昭和18年(1943年)2月に第一師範駅と改称され、府立高等駅は、東京都制の施行に合わせ昭和18年(1943年)12月に都立高等駅へと改称されている。このことから、「青山師範」と残っている点に着目すれば、下限を昭和18年(1943年)1月までとすることができる。
どうやらこれが、昭和18年(1943年)改名説の根拠ではないかとしつつ、今回はここまで。
追記:コメント欄にも頂戴しているが、元京浜電気鉄道の東急品川線の鈴ヶ森駅(立会川~大森海岸間)が掲載されていないので、間違いなく昭和17年(1942年)7月以降作成されたこと。また、駅として記載されているが、二本線で消されて「休止」とされているもののうち、上図の範囲には載っていないが平沼駅がそれに該当しているので、休止となった昭和18年(1943年)6月以前に二本線が引かれる前の元図は作成されていたこともわかる。また、これも上図の範囲から外れるが、昭和17年(1942年)12月開業の久里浜駅が記載されているので、これ以降の作図も確定だろう。さらに、同じく上図から外れるが、神中鉄道の神中に二本線が引かれ相模と追記し、相模鉄道と読ませているので、昭和18年(1943年)4月より以前に元図が作成されていることになる。以上のことから、本図(元図)は昭和17年(1942年)12月以降、昭和18年(1943年)1月末までの間の状況(おそらく1月1日現在ではないか)と推測できるのではないかと考える。よって、雪ヶ谷駅から雪ヶ谷大塚駅への改称は、どんなに遅くとも昭和18年(1943年)1月までには行われたとなる。
XWIN様
今回が最も決定打に近いものであると思いますが、近所の商店街の人々に聞いても全く知らないとのことで、東急の社史にも記載が無いので世間の無関心さを痛感しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/04/06 09:24
追伸
京浜急行の鈴が森駅の記載が無く昭和17年に廃止されたとのことですので之も根拠の一つとなります。私事で申し訳ありませんがこの駅の前に親戚が住んでおり一度訪問したことを思い出しました。電力節約のために駅間距離が500M以下の駅の廃止が求められていたようです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/04/06 12:32
XWIN 様
情報有り難う御座います。
休止の二本線は戦時下の停車による起動電力節約のための駅間距離の短いものの休止であると思います。平沼駅や並木橋や新大田町、桐が谷は空襲により完全に廃駅となり、南北馬場は最近統合されました。近所に住んでいながら生憎池上線を利用していた級友が居ませんので確かめる術が無いのが残念です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2012/04/07 11:50