池上電気鉄道の歴史について、当blogではかなり多くを取り上げているつもりであるが、まだまだ語り足りないところが多い。それは、片手間で行っていることがその最たる理由ではあるが、無論それだけではなく、私の理解不足や資料収集・読解能力にあるのは確かである。よって、今回は史料の一つ「蒲田支線工事竣工期限延期願」を示しながら、あれこれ語ってみたいと思う。
池上電気鉄道は、その名に「池上」を冠するように現在の東京都大田区池上一丁目にある池上本門寺への参詣客輸送を目的として設立されたのだが、大正元年(1912年)に発起人たちによって設立されたものの、10年を経ても開業はおろか、まったく鉄道建設工事に入ることすらままならない状態が続いていた。それが大きく変わるのは取締役社長に高柳淳之助が就任してからで、大正11年(1922年)4月20日に臨時株主総会で代表権を奪取し、池上電気鉄道としてはわずか半年ほどでたったの2km程度の単線ではあったものの開業に漕ぎ着けたのであった。この高柳社長が就任して1か月ほどして当局(鉄道省)に提出した文書が、今回の主役「蒲田支線工事竣工期限延期願」である。
「蒲田支線工事竣工期限延期願」文書は、大正11年(1922年)5月22日付となっているが、鉄道省が文書収受したのは5月22日よりも後のことと思われる。だが、いつ収受したかはわからないといいつつも、この文書冒頭からわかるように「大正11年5月25日まで」という竣工期限が迫っていたため、どんなに遅くとも5月25日には提出し収受されたと思われる。そして、鉄道省がこの文書を許認可したのは7月20日であるので、約2か月の審議(審理)の末、認められたとなるだろう。
この経緯から確認されるが、池上電気鉄道は何度目かの竣工期限延期を願い出ており、いずれも期日までに竣工できなかった。高柳社長が就任した時には竣工期限まで1か月程度しかなく、就任後すぐに新たな延期願が画策されたと見て間違いない。しかし、池上電気鉄道側でもいつまでもこの状況を放置できないのはもちろん、鉄道省側でもそろそろ失効してもやむを得ないというところまで来ていたと見込まれる。というのも、許認可まで約2か月を要したのはもちろん、「蒲田支線工事竣工期限延期願」の文面からは最後のチャンスとばかり、すべて準備万端であると主張していることからも汲み取ることができる。
すべての鉄道用地5,743坪余は収用完了し、わずかに2戸の建物の移転を残すのみ。それも20日間のうちには完了する。既に変電所、車庫、事務所も完成を見、電車も5台組み立てを完了(ただし完成とは言っていない点に注意)。送電線及び架空線も大部分完成し、3か所(蒲田、蓮沼、池上)のプラットホームは工事中。ただし、線路はレールは準備できているものの枕木や砂利等は輸送中であるとし、これから建設するとしているが、ここまで準備を整えているのだから失効だけは勘弁してほしいというのがありありだ。
そして、肝心の延期期限は大正11年(1922年)10月25日とさらに5か月の猶予を求めた。その結果は、その期限到来前の10月6日に池上~蒲田間の開業を見たが、そこに至るまでにも設備や工事方法を簡略化(仮設工事扱い)するなど、これ以上竣工延期できないという危機感のあらわれでもあった。
私の大好きな池上線シリーズ
期待しております。
品川区の100年にも掲載された「踏切渡始式」ですが、そちらの方面に詳しい知人があの写真をごらんになり。
「枕木の間隔が離れており、また枕木が曲がっているのもある 基盤も薄そう」
との感想を言われていたのが印象的でした。
やっぱり、池上線って…………
それから、池上線に関しては、かなりあちこちに「高圧鉄塔は、いつできたのですか?」とお聞きしたり、調べたりしているのですが、高圧鉄塔建設時期が不明です。
池上線創業時と思われる写真が手元にあり、高圧鉄塔はありません。最初はなかったそうです。
そしてさすがに「東急線の鬼子」池上線。
資料がないことについては、右に出るところは少ないかも、という。。。
シリーズ、心待ちにしております!
投稿情報: りっこ | 2012/03/07 14:52