現在の京浜急行電鉄、かつての京浜電気鉄道(その前は大師電気鉄道)は関東地方最古の電気鉄道として知られるが、その歴史の古さ故、自社においても明治期の歴史については不明なことが多いようである(社史等を眺めたに過ぎないレベルで言い切れないのでこのように表記)。このためか、鉄道ファン向けの書籍などでも、特に品川~川崎間の駅(停留所)名には不明としているものが多いが、今回は参考資料として「携帯 番地入東京区分地図」(明治43年(1910年)刊行)という小冊子の「東京及郡部之図」とあるページの一部を抜粋し、これを補強・補完しようと試みる。
この地図には、開業10年足らずの京浜電気鉄道の路線が描かれており、ここには次のように駅(停留所、停車場)名が列挙されている。
- 八ッ山
- 大横町
- 北番場
- 南番場
- 青物横町
- 鮫洲
- 浜川
- 学校前
- 立会川
- 海岸
- 学校裏
- 沢田
- 山谷
- 立石
- 蒲田梅園
- 蒲田
- 下町
- 出村
- 雑色
- 八幡塚
- 中町
- 六郷(以下略)
以上のうち、馬場が番場であるとか字の違い(あるいは当時はこれが正しい?)や、院線(現JR)大森駅との接続線がなかったり、大師線に引いてある赤い線が途中から道路上に変わってしまい、羽田(猟師町)までつながってしまったりはあれど、他の同時代地図資料と比べて停留所の数も一致するため、信憑性は高いと見る。
さて、お気づきの方は自明のとおり、ここには定説とされているものとは異なった情報が記載されていることがわかるだろう。例えば、沢田停留所と学校裏停留所が併存していること(定説では沢田駅が改称によって学校裏駅となる、とされる)など、いくつも興味深いものが確認できる。無論、この手の資料に誤りはつきものなので、まったく鵜呑みはできない。中には本当に大丈夫か?と心配してしまうものもあるが、この資料は他を見ても誤りは少ない部類であり、この5年後(大正4年(1915年))に刊行された著者等がまったく異なる「改正調査番地入東京市全圖電車線路明細入」という1枚ものの地図裏面に記載されている京浜電車案内図でも、
ご覧のとおり、ほとんど異動がない(学校前が体育会前に、海岸が大森海岸に、蒲田梅園がなくなる)ことから、この地図の信憑性は高いと判断するのである。で、興味深いのは「学校前」と「学校裏」という駅(停留所)名があったことで、これらは互いに違う学校を指していたと思われるものの(駅間距離がかなり離れているので)、まったく関連性がないとも言い切れなさそうで、なぜこういうネーミングとしたのか興味は尽きない。
というわけで、京浜急行電鉄の明治期の駅(停留所)が掲載されている資料を紹介しつつ、今回はここまで。
学校裏と沢田は、現在の平和島と環七の位置から考えて今ひとつ位置関係のイメージが湧きませんが、インターアーバンと言うよりは専用軌道を走る路面電車的な感覚で一人でも客を取りこぼさないように停車場を多く設置したのかもしれません。
私が年少の頃赤と青の2位信号機であったことを思うと北馬場と南馬場のように目と鼻の先に停留場がある路線でしたので両方在ったのかも知れません。陸地測量部の地図でもあれば確かめられるかもしれません。
平均速度の遅いSLに代わって高出力の院電の運転が開始されると大打撃を受けたのも当然でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/12 09:10
学校裏追伸
陸地測量部東京近傍大森の1908年版が国会図書館にありますので一度閲覧してみます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/06/12 16:27