東日本大震災をきっかけに起こった福島第一原発事故で、放射性物質に汚染された水を海洋に不法投棄するという行為が批判される我が国だが、根源的には国民性の違いも浮き彫りになったように感ずる。それが「水に流す」という事に対する受け止め方であるように思う。
おそらく諸外国(近隣諸国)は、不法投棄するなら世界と直繋がる海洋ではなく、日本国内の適当な場所に投棄せよ、と言いたいところだろう。自分で蒔いた種は自分で刈り取れ、と。それをあろうことか皆で共有する海洋投棄とは何事か、と。
だが、「水に流す」ことを善しとする我が国では、土地に捨てるよりも水に捨てることを選択した(もともと水だし)。その選択がどうなるかは将来に向けて監視し続けなければならないが、少なくとも諸外国からは自分さえよければ他人はどうなってもいいと見られただろう。怒りの質は漁業関係者とは異なるが、間違いなく言えることは、農業よりも漁業の方が軽く見られていること。そして、極東の島国の考えていることはよくわからん、理解できない、という無理解の感情だろう。
互いの文化を尊重するには、相手のことをまず理解しなくてはならない。それが非常時だから、という理由で許されるのは近しい関係者だけでしかない。よって、本当に投棄しなければならない状況だったのだとすれば、海洋という選択肢は最初からなかった。そういうセンスのなさが、現在の我が国政府だから仕方がないといえるが、国内のみならず国際的にも信用失墜していく様は痛々しい。
何となく、ではあるが、大正デモクラシーが関東大震災によって破壊されていく時代の繰り返しとなるような…。同時代人でない、よって、時代の空気が読めたわけではないので「後付けの歴史」でしか知らないが「統制」とならないよう警戒しよう。過去を水に流すことだけはしないように。
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