昨年の野球賭博関与問題に続いて、今回は大相撲そのものの八百長事件。賭博にかかわるだけでなく、賭博そのものの演出にかかわるようになっては、さすがに今回の事件の大きさは野球賭博関与問題以上のものだと協会も気付いたようである。春場所の中止も含めて検討されているようだが、相撲協会の対応のまずさは昨年の野球賭博関与問題で「正直者が馬鹿を見る」結果しか生まなかった事実から明らかなように、内部での自浄作用に期待するのは困難だろう。なので、外部専門委員的なものでお茶を濁すのではなく、まずは自己申告制にして、その結果にかかわらず官憲の捜査対象に含め、自己申告通りでなかったなら通常罰の2倍(あるいは自己申告どおりであれば罰軽減)とでもしていかねばならないだろう。性善説に立っての行動は信用失墜行為にしか映らないためである。
とは言いながらも、私自身は大相撲に興味はないので、特にどんな結果となっても気にも留めない。むしろ、伝統芸能的なものとして生きていった方がいいのではないかとも思っている。すべてが予定調和の世界になっており、いかに本当の真剣勝負のように見せるか、ということをテーマとしていいのではないか、と。そうであれば、そもそもが出来レースでしかなく賭博のかかわる余地もなくなり、八百長の存在価値すら失われる。誰が誰に勝つかもわかっているが、技の美しさとか、けがしない受け身の美学であるとか、真剣勝負でないにしてもおもしろさの価値がすべて失われるとは思えない。下手に真剣勝負だと言っておきながら、実はインチキでしたという方が始末に負えないだろう。
とは思いつつも、今回は次のような4コマを作ってみた。
大相撲が国技というのも、私自身どうでもいいと思っているので、何をそんなに熱心に…と思わなくもないが、興味は人それぞれなのでそれ自体に何かを言うつもりはない。ただ、国民的とか言われてしまうと、自分は明らかにその輪の中に入っていないつもりなのに、入っているような錯覚を覚えるのが不快なのだと気付く。そんなことを考えたりしつつ、今回はここまで。
元々相撲は興行師が仕切り、神社仏閣の維持費の一助として行われていたものが、国粋主義的と言うか、原理主義的と言うか、元々芸人(アーティスト)としての相撲取りも国技の名の下に国家公務員に変身させられてしまった。公務員になればそれなりの罰を受けなければならないが、胴元が文科省となるとお奉行様も遠山左衛門の尉でもその裁きに苦労されるでしょう。なにしろ水野の殿様より強力な有識者が相手であればなおさらのことである。その成り行きを見守る他に道は無いようである。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2011/02/05 12:28