前回(その9)は、池上電気鉄道と目黒蒲田電鉄の対立軸に影響を及ぼしたであろう、三社の計画についてふれてみた。今回は昭和3年(1928年)以降、池上電気鉄道調布線・国分寺線計画と目黒蒲田電鉄の二子玉川線計画がどのように進捗し、対立していったのかについて論じていくことにしよう。
昭和2年(1927年)という年は、これまで見てきたように池上電気鉄道(雪ヶ谷駅~大崎広小路駅間)、目黒蒲田電鉄(大井町駅~大岡山駅)、そして東京横浜電鉄(渋谷駅~丸子多摩川駅間)の新規(延伸)線が開業し、いよいよエリア内での熾烈な競争がリアルな形で目に見えるようになり始めた時期である。その年末に、池上電気鉄道は調布線と国分寺線、目黒蒲田電鉄は二子玉川線の免許を獲得。戦いは新たな展開を迎えようとしていた。
では、昭和3年(1928年)に両社、両免許線がどうであったかを確認するため、年表形式で主な事象をまとめてみた。ご覧いただこう。
- 昭和3年(1928年)2月14日、池上電気鉄道、起業目論見書一部変更認可申請。
- 昭和3年(1928年)3月23日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~奥沢間、工事施行認可申請。
- 昭和3年(1928年)4月10日、玉川全円耕地整理組合、第二回評議会開催。
- 昭和3年(1928年)4月13日、目黒蒲田電鉄、工事施行認可申請に際し、接続駅を奥沢駅から大岡山駅に変更。同時に、東京横浜電鉄と接続駅に関する協定を締結(九品仏駅を接続駅とし、駅名を衾駅と改名など)。
- 昭和3年(1928年)5月1日、池上電気鉄道、起業目論見書一部変更認可。
- 昭和3年(1928年)5月8日、池上電気鉄道、玉川全円耕地整理組合に「鉄道線路工事施行設計ニ関スル件」を申請。
- 昭和3年(1928年)5月24日、玉川全円耕地整理組合、池上電気鉄道に対し「鉄道線路工事施行設計ニ関スル件」を承認。
- 昭和3年(1928年)6月1日、諏訪分区、耕地整理工事着手。
- 昭和3年(1928年)6月17日、池上電気鉄道、大崎広小路駅~五反田駅間、延伸開業。
- 昭和3年(1928年)6月23日、奥沢駅周辺地主から接続駅を変更した件に関する陳情が出される(同時期に目黒蒲田電鉄宛にも提出)。
- 昭和3年(1928年)7月18日、池上電気鉄道、鉄道大臣に「調布線工事一部施行ニ付上申書」を提出。
- 昭和3年(1928年)8月29日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線(大岡山駅~瀬田河原間)の工事施行認可。
- 昭和3年(1928年)9月1日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~奥沢間、工事施行認可。
- 昭和3年(1928年)9月6日、目黒蒲田電鉄、二子玉川線建設工事着手。
- 昭和3年(1928年)10月5日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~新奥沢駅間、開業。
具体的な動きが見られるのは、池上電気鉄道が先行する。まずは免許時に御請書で約束した、工事施行認可申請前までに田園調布駅への接続を奥沢部落(地域)へと変更する根拠として、起業目論見書の変更申請を行った。
起業目論見書一部変更認可申請
昭和二年十二月十六日付監第三四五八号ヲ以テ免許相成候鉄道線路ハ起点附近ノ曲線配置其他ノ事由ニ依リ起業目論見書中一部変更致度候間特別ノ御詮議ヲ以テ至急御認可相成度関係書類相添ヘ此段申請候也
昭和三年二月十四日
池上電気鉄道株式会社
取締役社長 男爵 中島久万吉
専務取締役 後藤国彦
そして、添付の変更事項は以下のとおり。
起業目論見書中変更事項
一、線路ノ起終点及其ノ経過スヘキ主ナル市町村名
起点 東京府荏原郡池上町
終点 同府同郡玉川村
線路ノ経過スヘキ市町村名
東京府荏原郡池上町、調布村、玉川村一、鉄道事業ニ要スル資金ノ総額及出資方法
資金総額 五拾万円
出資方法 増資又ハ借入金変更ノ理由
一、曲線ノ配置及府県道交叉ノ関係並ニ昭和二年十二月十六日付監第三四五九号免許状御下附ノ際提出セル請書ノ趣旨ニ基キ起点ヲ弊社線雪ヶ谷ニ変更シ目黒蒲田電鉄線ト交叉地点ヲ玉川村奥沢部落ニ変更ヲ要スル為終点ノ変更ヲ要ス
一、府道トノ平面交叉ヲ許サレサル為建設費ノ増加ヲ要ス
以上のように、起点は調布大塚駅(荏原郡調布村)から雪ヶ谷駅(荏原郡池上町)に起点を変更し、終点も田園調布駅(荏原郡調布村)から奥沢地域(荏原郡玉川村)に変更する内容で、理由はその名のごとく「変更ノ理由」として二点をあげている。面白いのは、建前上は目黒蒲田電鉄からの反対と書けないのでそれにふれないのは当然だが、どちらも府道とのかかわりがあげられていることだろう。
一つ目の理由は「府道との交叉」以外に「曲線の配置」や「御請書」の存在をあげており、これは予定調和の世界である。問題は二つ目の理由で「府道との平面交叉は認められない」という点にある。さて、この府道とはどの道路を指すのであろうか。
一つ目の理由に出てくる府道は、現在の中原街道を指しており、これも平面交叉については難色は示されるが、既存の生活(幹線)道路であり、拡幅計画もあるにはあったが、絶対的に求められないという態度ではなかった。しかし、二つ目の理由に出てくる府道は中原街道のことではなく、昭和2年(1927年)に都市計画決定されたばかりの環状八号道路(現在の環八通り)であり、当初から幅員25メートルで計画された立体交叉を義務づけられた計画道路だった。現在の地図を確認すればわかるように、池上電気鉄道線(現 東急池上線)は環八通りの東側を走っており、田園調布駅に接続するにはどうしても環状八号道路を越えなければならなかったのである。そのため、これを建前上の理由としたのだった。
この起業目論見書の変更認可は5月1日に認められるが、池上電気鉄道はその結果を待たず、3月23日には工事施行認可申請を行う。ここだけ見れば、池上電気鉄道の方が免許も工事施行認可も先んじているように映るが、実際そのとおりだった。目黒蒲田電鉄は、二子玉川線の計画を大きく変更し、ために地元との紛争を抱えるに至ったからである。
地元奥沢の地主から東京府知事に、昭和3年(1928年)6月23日付けで出された陳情書を見てみよう。
拝啓
今般鉄道省ニ対シ目黒蒲田電鉄株式会社ヨリ二子玉川線建設方申請ノ由及聞候処之カ計画実施ニ伴フ弊害ハ己ニ度々借地人側ヨリ或ハ文書ヲ以テ或ハ口頭ヲ以テ陳情申上置候趣ニ有之候処我々地主側ニ於テモ亦別紙ノ如キ理由ヲ以テ之カ建設ハ反対仕候ニ付テハ貴庁ニ於テモ何卒那辺ノ事情御高察ノ上御同情アル御取扱ニ預度
右及陳情候昭和三年六月二十三日
荏原郡玉川村大字奥沢
四百四拾九番地 石井
四百拾八番地 三田
四百六拾弐番地 石井
四百弐拾六番地 神谷
四百六拾八番地 原東京府知事 平塚広義 殿
なお、陳情者の名のみ省略した。この陳情書に記される「別紙ノ如キ理由」は、目黒蒲田電鉄社長宛に出された陳情を添付することで説明されている。
目黒蒲田電鉄株式会社々長殿
拝啓
今回貴社ニ於テ二子玉川線建設ニ伴ヒ其ノ一部ハ我々ノ地域内ヲ通過セシムルコトニ御計画相成候為居住者一同ヨリハ本年二月以来之カ変更方ニ付種々陳情中ニ有之候処我々地主側ニ於テモ亦左記事由ニ依リ御計画変更方御再考相煩度茲ニ及陳情候
記
甲、現計画線ニ依ルトキハ左ノ如キ障害アリ
一、現在住宅地区ノ風致安静ヲ害シ住宅地トシテノ要素ヲ全壊シ其ノ価値ノ低落ヲ来スコト甚大ナリ
二、通過地区ハ高台ナルヲ以テ道路面ヨリ敷尺ノ深サニ土地ヲ切下建設セサル可カラザルヲ以テ交通ニ危険ヲ及ボシ永遠ニ該地方交通事故ノ原因ヲ作ルコト明カニシテ殊ニ児童通学ニ一大危険ヲ醸成スヘキコトヲ必セリ
三、現計画線中ニハ二三百年以上ヲ経タル古名木由緒アル古祠アリ之ヲ材伐除去スルハ甚シク風紀風致ヲ害ス
四、住宅組合家屋ノ価値ヲ低下シ之ニ依リテ起ル損害ニ対シテハ組合規約上相当面倒ナル問題ヲ惹起スル為借地人ニ非常ナル迷惑ヲ及ホスコトトナル
乙、北方低地迂回線建設ハ左記事由ニヨリ可能ナリ
一、北方低地ハ一体ニ田畑ニシテ何等障害トナルヘキモノナシ
二、北方低地ハ高低全然無ク線路状態モ十分良好ナルヲ以テ何等危険ヲ醸スコトナシ
丙、貴社ニテハ我々所有地通過ノ予定線ヲ以テコレ以外ニナキモノト断言シナガラ事実数回計画ヲ変更セラレシ所ヨリ見ルモ現在ノ設計ハ唯一必須ノモノト認メ難シ
丁、貴社ハ耕地整理組合員ノ会合ニ於テ満場一致貴社提案ヲ賛成シタリト称スルモ我々地主ハ何レモ皆反対ノ意向ヲ有スルヲ以テ貴社ノ声明ニハ尚再考ノ余地アルモノト認ム
これは「東京急行50年史」の122ページに「奥沢周辺の地主からは、同年6月23日付で、計画変更により大きな損害を受けたとして計画変更反対の陳情がなされたが」とあるものである。内容を見れば、かなり具体的なものとわかるので、これについては次回(その11)で確認するとしよう。今回はここまで。
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