前回(その6)の最後に、調布線の原型(「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間」)から、いかにして奥沢線(新奥沢線)に変わっていったのかについて4つの疑問を掲げた。
- 「田園調布駅~国分寺駅間」の免許申請を行った理由は何か。
- 「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点」を「調布大塚駅」に変更した理由は何か。
- 「調布大塚駅~田園調布駅間」及び「田園調布駅~国分寺駅間」の免許申請が許認可されなかった理由は何か。
- 「調布大塚駅~田園調布駅間」を「雪ヶ谷駅~奥沢地区内」に設計変更を約すまでに至った経緯はいかなるものだったのか。
これら疑問点について検討していくことで、調布線から国分寺線を追願し、結果として雪ヶ谷駅~奥沢地域~国分寺駅に変質、さらに奥沢線(新奥沢線)に移行するまでの流れを明らかにする。では、最初の疑問「「田園調布駅~国分寺駅間」の免許申請を行った理由は何か」から検討していこう。
「田園調布駅~国分寺駅間」の免許申請日は昭和2年(1927年)6月4日ということなので、当初の「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間」に追願という形となるだろう。つまり「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間」だけでは、免許が許認可される見込みが立たなかったという可能性。そして、もう一つの可能性は昭和2年(1927年)4月20日に田中義一内閣が成立し、鉄道大臣に小川平吉氏が就任したという事実である。巷間にいわれる池上電鉄国分寺線(雪ヶ谷~国分寺)とは、もともとは二つの鉄道免許申請だったのだのである。
言うまでもなく、小川平吉 鉄道大臣は鉄道免許をばらまいた(許認可を連発)ことで知られるが、池上電気鉄道は就任約2か月の鉄道大臣の「資質」を見抜いて「田園調布駅~国分寺駅間」の追願を行ったのか。あるいは既存の「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間」だけでは免許の見通しが立たなかったからなのか。先にもふれたように、残念ながら昭和2年(1927年)6月4日「田園調布駅~国分寺駅間」免許申請関係書類が見出せていないので、建前上の理由すらわからない。だが、昭和2年(1927年)12月10日付の「御請書」の記載から判断すれば、目黒蒲田電鉄の存在を無視するわけにはいかないだろう。
要するに「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間」の鉄道免許申請の審査にあたり、近隣鉄道事業者からのヒアリングの結果、この計画線が目黒蒲田電鉄の営業に悪影響を及ぼすと判断されたからにほかならないからである。昭和2年(1927年)という年は、池上電気鉄道にとっても目黒蒲田電鉄にとっても新線開通があったが、詳細を見れば、
- 昭和2年(1927年)7月6日、目黒蒲田電鉄、大井町駅~大岡山駅間を開通。
- 昭和2年(1927年)8月28日、池上電気鉄道、雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅間を開通。
- 昭和2年(1927年)8月28日、東京横浜電鉄、渋谷駅~丸子多摩川駅間を開通。
とほぼ同時期に、同じエリアに新線を開通させているのである(東京横浜電鉄は参考まで)。そして両新線の交叉箇所は、ただ鉄道が交叉するだけの場所に過ぎず、それぞれ交叉箇所から離れた場所に目黒蒲田電鉄は東洗足駅を、池上電気鉄道は旗ヶ岡駅を設置したのである。この両新線は、開通までの数年間に計画変更が複数回なされ、その都度両線の交叉箇所は変更されるが、一度として乗り換え駅の構想はなかった。
上図が昭和2年(1927年)7月5日の状況を表す。目黒蒲田電鉄大井線(大井町線)、池上電気鉄道線、東京横浜電鉄渋谷線の鉄道敷設工事は、いずれもほぼ終わっており、開業を間近に控えた状況である。
これが昭和2年7月6日、大井町線の開業である。新駅名は、戸越、蛇窪、中延が大字名から。荏原町が町名から。東洗足が洗足田園都市からである。このうち、戸越と中延は池上電気鉄道も予定駅名としていた。
そして、昭和2年8月28日。池上電気鉄道第三期工事としての雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅間が開通。約1か月後には大崎広小路駅まで延伸開業するが、待望の五反田駅まではさらに一年近く要することになる。まったく同日には、東京横浜電鉄渋谷線として渋谷駅~丸子多摩川駅間が開通した。この東横線の開通によって、目黒蒲田電鉄のスタンスは目蒲線から東横線にシフトしていくが、それはいずれふれる機会までお預けとする。
さて、鉄道敷設免許としては池上電気鉄道の方が古かったが、その後の計画変更や平塚耕地整理組合の事業(組合)地をどちらも通過する事情から、鉄道工事着工時期は事実上ほぼ同時期となるのだが、平塚耕地整理組合の施行完了許可が1か月ほど先に目黒蒲田電鉄に出されたため、池上電気鉄道は後塵を拝することとなった。「東京急行電鉄50年史」には、大井町線(大井町駅~大岡山駅間)は昭和2年(1927年)2月には工事完了の予定だったものを意図的に遅らせた等と記載はあるが、このあたりは確認のしようがない。事実は1か月半ほど目黒蒲田電鉄大井町線が先行開業できたということで、ここでの議論は十分だろう。結果、予定していた駅名も先に目黒蒲田電鉄に使われてしまい、戸越銀座(開業前は戸越駅と予定)や荏原中延(開業前は中延駅と予定)とやや長い駅名称となった。
もうおわかりだろう。昭和2年(1927年)は、この両新線の開業に至るまでの戦いが両社の間で繰り広げられていたのである(東京横浜電鉄の渋谷駅~丸子多摩川駅間が池上電気鉄道の延伸開業と同日だったのは偶然か?も含め)。そういう年に調布線(奥沢線)の鉄道免許申請を行ったのだから、目黒蒲田電鉄として当然黙っているはずがなく、ありとあらゆる手で反対したことは容易に想像がつき、その一環が営業に悪影響を及ぼすという当局(鉄道省ほか)への訴えだったのだ。
この目黒蒲田電鉄の意見は、鉄道営業エリアの観点から見て正当な言い分であり、短絡線を設けることで我田引水するということは火を見るよりも明らかであったので、これにいかに対抗するかが池上電気鉄道の焦点となる。その答えが、実は「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~田園調布駅間」という短絡線建設が目的なのではなく、あくまでこの計画は第一期線という位置づけに過ぎず、「田園調布駅~国分寺駅間」を第二期線として用意してあり、省線国分寺駅までのルートを目指したものである、と。つまり、大義名分として、短絡線に見えたものは「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点~国分寺駅間」の第一期線であり、第二期線を見れば、たまたま田園調布駅付近を通過するだけでしかない、としたのである。これを裏書きするものが、昭和2年(1927年)6月4日の「田園調布駅~国分寺駅間」鉄道免許申請となったと考えるのだ。
また、あとの疑問点の項でもふれるので簡単に記すが、目黒蒲田電鉄は二子玉川線計画に関連して地元の地主らとトラブルを抱えていたこともあり、これと競合する路線を出願(追願)することで、より対決姿勢を深めていった可能性も指摘できよう。
では、2番目の疑問となる「「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点」を「調布大塚駅」に変更した理由は何か」、について考えよう。
まず確実なことは、本線からの分岐点を駅とすることは自明であるだろう(単線であれば駅から分岐点まで複線、複線であれば駅から分岐点までは複々線としなければ、よほど支線の路線運行密度が低くない限り成立しがたい)。もちろん、線路の分岐点という意味ではなく、路線としての分岐点は乗り換え駅と想定するのが自然であり、調布大塚駅の新設はこれを踏襲するものとなる。ただ、ここで問題となるのは、「大森駅から3哩61鎖(3マイル61チェーン)地点」の計画では、五反田(雪ヶ谷駅)方面から田園調布駅に乗り入れる分岐線という位置づけだったものが、調布大塚駅の新設では線形的に蒲田駅方面から田園調布駅に乗り入れる形になってしまうことであった。残念ながら、調布大塚駅へ変更となった計画図を見出すことができないので断言できないが、昭和2年(1927年)8月19日に新設された調布大塚駅を見る限り、五反田方面から接続させるのは無理があろう。もちろん、調布大塚駅でスイッチバックすることで、雪ヶ谷駅~調布大塚駅~田園調布駅という運行は可能であるが、あまり適切なものとは言えない。あえて、池上電気鉄道がこの場所に調布大塚駅を新設した意味を考えてみてもいいだろう。
調布大塚駅周辺は、五反田駅まで全通した暁には、池上駅付近にあった車輌基地を移転するための用地を確保していたので、駅をつくろうと思えばどこにでもつくることは可能であった。もちろん様々な条件を付せられるので、本当にどこでもいいとはならないが、あえてあの場所を調布大塚駅としたのは接道条件のほかには、分岐線をつくるのに線形上都合がよかったこととなるだろう。これより北側にすると既存の雪ヶ谷駅と近すぎてしまうという問題もあったろう。だが、先にもふれたように調布大塚駅からでは五反田方面からはスイッチバックしなければならない。
それでは、より自然な線形(接続)となる蒲田駅方向から見るとどうなるだろう。これは、田園調布駅~蒲田駅間の直通運転となり、完全に目黒蒲田電鉄線と並行路線及び運行となる。だが、それ以上に大正15年(1926年)~昭和2年(1927年)当時は、もっと大きな問題が横たわっていた。それは、ライバルと目される目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄との相互直通運転問題である。
目黒蒲田電鉄の姉妹会社となった東京横浜電鉄は、田園都市株式会社からの潤沢な建設資金(二束三文の土地を改良工事を施したとはいえ、20~50倍以上の価格で販売。また、現 東工大との等価交換で得た浅草蔵前の土地売却益も大きい)を得ることで、一気呵成に今日の東急東横線にあたる路線を建設していたが、目黒蒲田電鉄への影響を抑えるため、渋谷駅側からではなく横浜側からの先行建設を行い、丸子多摩川駅~神奈川駅間を開業。丸子多摩川駅で目黒蒲田電鉄に乗り入れ、目黒駅までの直通運転を実現した。結果、今日の東急多摩川線と同様に、丸子多摩川駅~蒲田駅間はローカル線然と化したのである。目蒲線として一体的に運行されていたものが、このように分離されてしまえば、丸子多摩川駅~蒲田駅間の利用者はもちろん、目黒駅~丸子多摩川駅間の利用者にとっても不便になるケースが出てきた。ここに、池上電気鉄道の田園調布駅接続計画が割り込んでくればどういうことになるか。乗り継ぎ運賃の問題はあるが、目黒駅~(目黒蒲田電鉄)~田園調布駅~(池上電気鉄道)~蒲田駅というショートカットを生み出し、丸子多摩川駅まで行くことなく、蒲田駅まで行くことが可能になる。つまり、目黒蒲田電鉄への影響は甚大なものと予想できるのである。
かたや池上電気鉄道は、わずか1km程度の新線を建設するだけで、目黒蒲田電鉄へのショートカットを生み出すほかに、既に成熟しつつあった田園都市をはじめとする住宅地からの通勤・通学客需要を掠取することも期待でき、五反田駅まで接続するのに汲々としていた池上電気鉄道にとっては、慈雨となるのは確実である。少ない投資で大きな効果、これこそが調布大塚駅~田園調布間計画の真の目的であることは、既に述べたとおりである。
さらに、田園調布駅~国分寺駅間の免許申請を行ったことで、調布大塚駅~国分寺駅間となり、山手線の外側環状線(四分の一円だが)と位置づけられることから、調布大塚駅からの接続を五反田方面よりも蒲田駅方面として、蒲田駅~調布大塚駅~田園調布駅~国分寺駅と運行した方がよいと判断した可能性も指摘しておこう。
つまり、調布大塚駅への変更は線形の見直しであり、五反田方向からの接続を蒲田方向への接続に変えるものだった。これは目黒蒲田電鉄の状況を横目に見ながらと、国分寺駅までの直通運転に対する変更であり、多少でも自社が有利となるような池上電気鉄道側の思惑あってのものと考える。また、調布大塚駅の新設は、地元の荏原郡調布村から見れば、調布村役場の最寄り駅の誕生であり(それまでは目黒蒲田電鉄の沼部駅か池上電気鉄道の御嶽山前駅で、どちらも至近とは言えなかった)、調布村大字鵜ノ木字大塚に駅ができるということは、調布村の中心地としての飛躍を意味する。この地域の地主は、これ以降も調布大塚小学校、東調布警察署、東調布消防署、雪ヶ谷郵便局等の公共用地を次々と提供することからもわかるように、公徳心の高い方であったと思われ、これを池上電気鉄道は最大限に活用したのだと考える。
では、残る2つの疑問については、次回(その8)でおおくりすることとしよう。
地主の方々も田園調布や洗足と同じような発展にあやかろうと努力されたのでしょう。雪谷大塚への駅名の変更も地主の方々の影響力があったのかも知れません、いよいよ次回でのクライマックスを期待しております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/19 21:25
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
>いよいよ次回でのクライマックスを期待しております。
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嗚呼、すいません。
現在のところ、あくまで現時点ですが、毎日更新をやめ分量を多くしておおくりしているこのシリーズですが、実はもうしばらくおつきあいいただかないとならなくなりそうな感じです。その8まで書いていて、まだ工事にも話が進んでいませんからね(苦笑)。しかもその1あたりに書いたことと、食い違っているところも出てきていますし(その辺りは調査中故ご容赦を)。
というわけで、クライマックスは今の分量で行くとおそらくその13あたりまでとなりそうです。あてになりませんが。
投稿情報: XWIN II | 2010/08/22 08:16
悪戦苦闘する池上電鉄の生き様を見ると、鉃道官僚出身の五島氏の横暴さは今日でも相通ずるものがありますね。環八と交差する所の削られた敷地もこの戦いの夢の後であると聞いておりますが、確かなことは分かりませんが、更なる詳しい情報を心待ちしています。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/22 09:17