作尻架道橋とは、JR東海道本線(京浜東北線)の大森駅~蒲田駅間にある架道橋である。場所は、東京都大田区大森西一丁目12番と同19番の境に位置する(ゼンリンの電子地図で示すとここ)。この区間は、我が国最初の鉄道として明治初期に建設されたもので、この作尻架道橋のある付近もそれに含まれる由緒ある路線であるが、ここは水路(小河川)が流れており、鉄道建設当初から橋が架けられていた。しかし、架道橋ではなく河川を跨ぐ橋、跨線橋だったのである。
その後、大正時代に入って耕地整理組合による耕地整理(区画整理)が進み、この付近も道路が縦横に作られることとなり、水路に平行する線路をくぐる歩道が用意された。これが架道橋の始まりとなるが、戦後になってこの水路を暗渠化した際、自動車も通行可能な道路となり、名実共に架道橋となった。これが作尻架道橋というわけである。
ご存じの方はご存じのように、鉄道が市街化よりも先行して敷設されている場合、鉄道を挟んだ両地域は近くて遠い存在となる。ここ大森駅~蒲田駅間もご多分に漏れず、鉄道によって東西交通は分断され、現在でも踏切無しで東西交通が確保されている自動車も通行可能な場所は、わずかに5か所しかない。その重要な要衝の一つが、ここ作尻架道橋なのだ。
しかも、ここはわずかに1.7メートル制限。つまり、普通乗用車でもぎりぎりでトラックはおろか、若干高い自動車でもアウトである。そう、ここは抜け道としても有用な場所なのである(かつては一方通行でなかったが、歩道を拡幅したことで一方通行となった)。
それにしても作尻という名前。何に由来しているのだろう。調べてみればわかるが、「作尻」という地名は江戸期以降で見ても見当たらない。似たものとしては、荏原郡新井宿村の小名として「沢尻」というものがあり、これに関連することは容易に気付く。そして明治初期の地租改正によって、現在の東京都大田区中央三丁目あたりは「河原作」という小字名を与えられている。「沢尻」は、公式の地名としては地租改正時に小字名として継承されなかったが、昭和初期までその名は地域の間では残っていた。もうおわかりだろう。「作尻」とは「河原作」の「作」と「沢尻」の「尻」を合わせた、新旧の合成名なのである。ちなみに「沢尻」とは、この地域は「沢田」という名称(公式地名として明治以降採用されていないが、地域では今も根付いている)で、その南西境にあたる場所、つまり「尻」に比喩される場所を指したことによる。
とはいえ「作尻」というのは、尻を作るみたいな印象を字面で与えてしまうためか、どうしても揶揄されやすいようでそれがいたずら書きにも表れている。不憫なものだと感じつつ、今回はここまで。
俗に言うビックリガードは都内にも何カ所かありますが、今でも全く理解できないのが洗足池駅を五反田方面に少し行った所に人間がかがんでようやく通れるガードがあります。生活道路として容易に廃止できないのでしょうか?
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/11 12:27