本図(部分)はその名も「郡分合ニ関スル府県地図」という厳めしい名の地図群を構成する一つ、東京府を表わしたものである。作図年は、1891年(明治24年)の第2回帝国議会に提出された図ということなので、約120年ほど前のものとなる。
図名からわかるように、本図は府県に所属する郡を分合する案を示したもので、東京府においては確認できるように南豊島郡と東多摩郡を統合して新たな南豊島郡(赤文字)を作る案となっている。
本図では、東京府下にある5郡の郡役所所在地と郡内の有力地域も記載されている。
- 荏原郡………郡役所(品川)・有力地域(大森)
- 南豊島郡……郡役所(淀橋)・有力地域(新宿、中野)
- 北豊島郡……郡役所(板橋)・有力地域(王子)
- 南足立郡……郡役所(千住)
- 南葛飾郡……郡役所(小松川)・有力地域(新宿)
なお、郡役所設置地域はもちろん有力地域でもあるので、本図に名が記載された地域はいずれも繁華な地域(相対的に)であったとなるだろう。
で、いわゆる副都心とされる新宿、池袋、渋谷のうち、約120年前にそれなりの繁華な所は新宿だけということがわかる。本図には五街道も示されているが、一部の例外を除けば、すべてこれら街道沿いにあり、都市構造が江戸期以来あまり変わっていないことも伺える。これが変わっていくのは、五街道に代わる新たな交通手段の出現によって、ということだろう。
そんなことを思いつつ、今回はここまで。
XWIN II様
珍しい地図ありがとうございます。大森町が行政の中心であったことが分かります。荏原郡役所はその後平塚橋に,大森区役所が新井宿になったと聞いております。
スカイツリー
今話題のスカイツリーの高さは武蔵国をもじって634メートルとしたとのことですが、当時は下総の南葛飾郡であったことがわかります。OKWaveに投稿したら、下総を4も3とする語呂合わせもあるという書き込みがありました。江戸時代から都市化の波が律令制の国境を越えて周辺の郡部に及んでいたこともまた事実です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/08/29 09:14
このようなわかりやすい地図があったのですね
荏原郡役所はずっと品川、平塚橋は昭和7年からの荏原区役所かと思います。荏原郡は昭和7年に消滅。
葛飾郡は、江戸時代に一部が下総国から武蔵国に分かれました。さらに、明治11年に、武蔵国葛飾郡は北葛飾郡(埼玉)と南葛飾(東京府)に分かれ、下総国葛飾郡は、東葛飾郡(千葉)、西葛飾郡(茨城)、中葛飾郡(埼玉)に分かれました。
投稿情報: もちぐされ | 2020/03/16 22:29