さて、今回から(たぶん)途中中断をしながらとなるが、池上電気鉄道(目黒蒲田電鉄=のちの東京急行電鉄に合併)が誕生させた奥沢線(新奥沢線)について語っていきたい。が、既に当Blogにおいては、奥沢線に関してふれていることが多く(「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」など)、それと重複する部分が出てくるのはもちろん、書いてある内容が異なる可能性も出てくるだろう。理由は、新たな知見の元で従来の部分を書き換えざるを得ないこともあるからである。気付いた範囲で可能な限り、そういう点についてはふれていくつもりであるが、完全な対応とならない点についてはご容赦願いたい。
では、今回は簡単に奥沢線の概要を述べておこう。既にご存じの方もあるだろうが、手順として概要をおさえた後に個別の話を展開した方が見通しがきくし、私自身が迷走しつつ書いていく中(横道に逸れていくのは得意技)で最低限の羅針盤代わりとするためである。
池上電気鉄道奥沢線「昭和3年(1928年)10月6日~昭和10年(1935年)11月1日」
池上電気鉄道が開設した路線で、雪ヶ谷駅~新奥沢駅間を走り、途中駅は諏訪分駅のみ。最初は複線だったが、途中から単線になり、廃止時まで単線だった。計画当初は目黒蒲田電鉄沿線からの乗換客奪取を目指し、調布大塚駅から目黒蒲田電鉄田園調布駅への接続を目論んだが、許認可が困難との見通しから、起点を雪ヶ谷駅とし、接続方向を蒲田方面から五反田方面へと変更の上、省線(現JR)国分寺駅までの長大な路線(=国分寺線)として申請、免許される。しかし、当初計画から明らかなように、国分寺駅への接続が目的でなく目黒蒲田電鉄への接続が真の目的であった。
このため、目黒蒲田電鉄との戦いが激しくなり、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道との協議に応じないという作戦に出た。その理由として、大井町(二子玉川)線の計画を変更するなどして、路線計画が固まっていないので国分寺線と既存の目蒲線、東横線すら越える工法を得られないとしたのである。
よって、国分寺線は玉川全円耕地整理組合諏訪分工区内の用地買収までで、そこから先、目黒蒲田電鉄線をどういう工法によって越える(くぐる)かを決めることができなくなり、暫定的に新奥沢駅を設置して雪ヶ谷駅~新奥沢席間で開業した。
しかし、わずか2km弱の盲腸線であり、諏訪分工区内は耕地整理(区画整理)工事は完了したものの、換地処分までの時間がかかるなどして(耕地整理組合としてではなく、工区単位で換地処分可能かが議論の的となる等)住宅の建設が進まず、辛うじて諏訪分駅近くに調布学園が開校したことでわずかばかりの乗降客を得た以外はほとんどなく、五反田駅からの直通運転もなくなり、複線も単線となる。
その後、昭和8年に株式買収によって目黒蒲田電鉄に支配(統制)権を奪われ、昭和9年に池上電気鉄道は合併され消滅。昭和10年に奥沢線は廃止となった。線路等の跡地は、借地部分を除いてはほとんどが目黒蒲田電鉄田園都市部から諏訪分住宅地として分譲され、今では東京都世田谷区東玉川内の住宅土地区画によってのみしか確認することができない。
さらに時代が下って、かつての新奥沢駅跡地に標識が建つ。
なお、ゼンリンの電子地図で奥沢線の各駅の位置を示すと以下のとおり。
以上が概要だが、当Blogを初めてあるいは奥沢線に関連する記事をご覧いただいたことがない方には、巷間言われていることと違うことにお気付きだろう。このあたりも踏まえつつ、その2以降で奥沢線の歴史の詳細を語っていくことにする。といったところで、今回はここまで。
東横電鉄でも自由が丘から成城学園迄免許を申請していましたが取り下げています。経緯は知りませんが国分寺よりは現実的な企画であり、若しそのまま着工していたら世田谷地区も便利になっていたであろうと悔やまれます。現在は路線バスが主役です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/02 22:00