なかなか時間がとれないため、コメントを頂戴しておきながら放置状態で恐縮です。と、お詫びしつつ、今回は一枚の(古)写真。「東京横浜電鉄沿革史」から転載したコレである。
撮影地点は、ゼンリンの電子地図で示すとここから南側を撮影したとなる(住所でいえば東京都目黒区洗足二丁目25番)。現在の東急目黒線洗足駅前に昭和初期まで存在した、田園都市株式会社本社の建物である。田園都市株式会社は、当Blogをご覧いただいている方には言わずもがなかもしれないが、簡単に言えば現在の東急電鉄の前身、というよりは母胎的な存在で、すべてはここから始まったと言うべき会社である。
洗足田園都市区域に存在した田園都市株式会社本社は、言うまでもなく分譲地の中に本社を用意することで、分譲地の信用を高めるほか、販売そのものにも大きく貢献したのはもちろんである。いわば、本社機能以上に分譲地販売の最前線という位置づけと言っていいものだろう。
写真を見れば、右寄りに正門があり、さらに右端には大きな分譲地地図が見える。中央には「洗足池」と書かれた看板があり、ここが洗足池への最寄りであるとの主張と共に、洗足田園都市の由来が洗足池に近いからという主張にも読める(実際には池上電気鉄道が洗足池駅を開業した時点でそうではなくなるが、その前までは確かに最寄り駅だった)。
この本社屋は、大正12年(1923年)に完成し、目黒蒲田電鉄開業直後であったが、洗足田園都市の分譲が終盤を迎えた頃に取り壊され(移築されたという話があるが未確認)、商店街区画として分譲されてしまい、現在もその細区画がほぼそのまま残るが、この間わずかに10年足らず。この建物が取り壊される以前、田園都市株式会社は子会社であったはずの目黒蒲田電鉄に吸収合併(形の上では対等)されて既になし。役目を果たした、とされた本社屋の運命はこの時点で定まっていたとなるだろうか。
H型の石炭ストーブの煙突と当時の特徴を残す電信柱が印象的です。銀杏の木もまだ低いのでかなり古い写真であることが分かります。停電したといっては電話を掛けていたのがここであったか、狢窪にあった変電所であったかは定かでありませんが、電力事業も当時の電鉄事業の一環でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/14 09:23
同じ構図での、カラー写真、持っています。(コピーですが)
「東京府荏原郡碑衾町(洗足駅前) 目黒蒲田電鉄株式会社 田園都市部」
という、封筒に入っていた、(多分)絵葉書のセットの中の一つですよね。
田園調布駅とのセットで1枚のはがきになっているものです。
右端にあるの、これ掲示板かなぁ~
地色が赤いんですが。
レンガ色の建物の真ん前にある赤いポストがチャーミング ♪
投稿情報: りっこ | 2010/07/14 20:48
コメントありがとうございます。
>銀杏の木もまだ低いのでかなり古い写真であることが分かります。
↑
最終的な確認が取れていないのですが、洗足の銀杏並木については後年(戦後?)になって植えられたもので、分譲当初は桜並木だったという話が見えます。なかなか証拠写真をみつけることが困難で、やはり往時のことをご存じの方の話が確実なのですが…。
>同じ構図での、カラー写真、持っています。(コピーですが)
↑
現物を見ていないので私の知る限り、という狭い領域での話で恐縮ですが、おそらくカラー写真ではなく、モノクロ写真に後付けで色をつけた(塗った)ものであると思います。件の絵はがきシリーズは、写真原板(ガラス板)に絵の具で色付けしたものを印刷(量産)したものですので。
ただ、そうでないものでしたら私の勘違いです、すいません。
>レンガ色の建物の真ん前にある赤いポストがチャーミング ♪
↑
このスタイルのポスト。寿命が長かったんだと思いますね。
投稿情報: XWIN II | 2010/07/16 07:47
銀杏並木
当初は桜であったが昭和の初期に銀杏に植え替えられたという記述がありますが、写真から桜であったかどうかを判別するのは私の知識では困難です。戦災を受けているので戦後の可能性があります。戦前山田病院がありまして小生も昭和16年に入院したことがありますが、木が何であったかき奥が定かでありません。同級生も年々減り続けているので話を聞くことが困難であるのが実情です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/16 10:40
銀杏並木
あらためて写真を見てみると帚を逆さにしたような形状ですので私は植木には詳しくありませんが銀杏である可能性が大であるとおもいますので、ウイキペディアの記述が正しい様に思われます。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/18 23:20
たまたま国土地理院の25,000の1の地図の東京南西部を見ましたが、樹木に囲まれた宅地の表示が田園調布では3丁目から5丁目迄薄緑で表示されていますが、洗足田園都市では小山7丁目だけかろうじて残っています。相続の関係もあるのでしょうが、その差の大きさに驚かされました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/20 10:19
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
>あらためて写真を見てみると帚を逆さにしたような形状ですので私は植木には詳しくありませんが銀杏である可能性が大であるとおもいます
↑
決定的思料を見つけるまで判断は保留しますが、田園調布と同じような位置づけであることを慮れば「いちょう」であるだろうな、とは思います。ただ、当初桜だったものを田園調布の銀杏並木を見て、洗足会の要望でいちょうに植え替えた可能性も否定できません。
投稿情報: XWIN II | 2010/07/26 06:50
当初桜であったことはWIKIPEDIAで述べられていますがその出典は述べられていません。暑さが収まったら銀杏並木通りに唯一残っている友人を訪ねて経過を聞いてみようと思いますが、昭和初期では聞き出すのが困難かも知れません。植木のことには疎いのですが桜は手入れが大変であることも要因の一つであるかもしれません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/29 08:46
2日だけやや暑さが緩んだので友人を訪れまいしたが、残念乍ら話の出来る状態ではありませんでした。銀杏並木の駅からは慣れた所は太い幹でしたが、駅に近い所の幹は若い様に思われますのでやはり戦災の影響を受けたのでしょう。65年も経過しているので検証することは日々困難となるのもやむを得ないでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/07/31 20:01