洗足か千束なのか 前編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)
洗足か千束なのか 中編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)
洗足か千束なのか 後編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)
大井町線開業時、目黒蒲田電鉄は大岡山駅の次を東洗足駅とし、鉄道用地提供に多大な便宜を図った千束耕地整理組合の事業用地内に駅を用意しなかった。これに反発した地元は、目黒蒲田電鉄との交渉の結果、池月駅の開業を見た。これは、駅の立地条件としてけっして好条件ではなかったが、目黒蒲田電鉄にとっては「洗足池への最寄り駅」という新たな手駒を意味し、「池月」駅という名称が先行他線にあるという理由で改名を迫られた際、これを「洗足公園」駅とした。まだ、都市計画公園的な扱いになっていなかった洗足池だが、風致地区指定などが検討されていた昭和初期において「洗足公園」と改名したことで、真っ向から池上電気鉄道の「洗足池」駅と対立することになったのである。ただ、部外者からすれば、目黒蒲田電鉄本線(目蒲線)の「洗足」駅、目黒蒲田電鉄大井町線の「洗足公園」駅と「東洗足」駅、池上電気鉄道の「洗足池」駅と、駅名に「洗足」を持つ駅が半径1km未満に4駅も集中することとなり、紛らわしいことこの上なかった。
(実際、当時の文献においても「路線錯綜しておりあらかじめどの駅から行くかを確認してから出かけよ」というような表記を見ることが多い。これが、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に併合されて以降においてもそうなのだから、それ以前は言を待たないだろう。)
だが、池上電気鉄道は、洗足池においてはさすがに会社設立時よりここを旅客輸送の主力と位置づけていただけあって、目黒蒲田電鉄よりも先行していた。特に洗足池畔と最寄りの小池においては、権利関係をすべて池上電気鉄道が掌握していたのである(他文献には、当初より目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄)が掌握していたとする表記が多数見られるが、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄の軍門に下って以降の状態を、当初までさかのぼっていたとする誤解に基づくものと予想される)。通常、道路や河川等は国有地となっているものだが、それを利用する「権利」(使用権の類等)はそうでない場合があったり、あるいはそれ自身に地番が付いていたり(地番がある=暗黙の国有地ではない)など、原則と実態は合わないのは世の習いである。洗足池(及び池畔)においても、権利関係はかなり複雑だったようだが、それはともかく池上電気鉄道の勢力圏となっていたのだ。ここに、「洗足公園」と名乗る駅が誕生したことは、池上電気鉄道としては黙ってみているわけにはいかなかっただろう。
しかし、実際にこの対決は、池上電気鉄道の洗足池駅が勝者だったようである。まず、蒲田方面からの乗客を考えれば、池上電気鉄道は乗り換え無しで駅前が洗足池だったのに対し、目黒蒲田電鉄は大岡山駅で大井町線に乗り換え洗足公園駅まで行くか、さもなくば大岡山駅から歩いて15分程度ということで、文句なし池上電気鉄道の勝利。山手線方面からも、五反田駅まで直結した池上電気鉄道が有利となる。ただ、目黒蒲田電鉄は大井町線を擁したことで、鉄道ネットワークが充実していたことから、池上電気鉄道と接続させにくい沿線では目黒蒲田電鉄の方が有利だった。とはいえ、これは例外的なものだったと考える。
こうして洗足池を挟んだ対決によって、洗足池の名は東京近郊の遊覧地の一つとして賑わうようになるが、このタイミングでもう一つ、新たに「洗足」を冠する地名が登場する。それが道々橋千束こと、のちの東京市大森区池上洗足町である。ここは、洗足池南側に位置する旧道々橋村の飛び地で、明治22年(1889年)の町村合併により東京府荏原郡池上村大字道々橋字千束となっていたところで、耕地整理により字界・字名変更によって大字道々橋千束と名乗っていた。それが昭和7年(1932年)の東京市合併に伴い、道々橋千束から池上洗足町としたのである。道々橋という名前は、旧本村だった周辺を道々橋町としたので完全に消滅したわけではなかったが、耕地整理により新興住民が移住し多数となった結果が、道々橋の名を捨て千束を洗足とした理由であった。当時、洗足池駅が開業していたので千束を洗足とすることには、何ら躊躇するものではなかったのだろう。
こうして、洗足池周辺には、東京市目黒区洗足、東京市大森区北千束町、東京市大森区南千束町、東京市大森区池上洗足町と類似の町名が4つ並ぶことになるが、いずれも出自を異とする(南・北千束町は同一)ことは、このシリーズにおいて既にふれたとおりである。興味深いのは、最も歴史の浅い池上洗足町は住居表示制度の荒波にもまれ、既に消滅したことである。新興町名が生き残りにくいことは、この場所に近い東京都目黒区において富士見台、宮ヶ丘でも証明されている(現在はどちらも東京都目黒区南。ただどちらもバス停名に残されている[宮ヶ丘→宮が丘])。
洗足池を挟んだ目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道の戦いは、洗足公園駅と改称されてからわずか5年後に唐突に終結する。理由は池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に統制・合併されたからであるが、この結果を受け、洗足公園駅は北千束駅と改称されるが、駅名や地名の紛らわしさは今日まで続いているとおりである。ただ、前編の最初にもふれたように、だからといって安易に改称していいものではないだろう。洗足と千束、どちらにも歴史があって、それはもう80年以上に及んでいるのである。
というわけで、洗足なのか千束なのかは、この結論をもって今回で終了。
イメージアップして地価を高めようと地名を利用する傾向は田園調布も同じです。調布の地名は大田区役所の課税事務分担のいまでもその名残をとどめています。目黒区洗足からは第二延山小学校に多数越境入学者がいましたので洗足田園都市と言うとつい目黒区洗足が頭に浮かびます。池上洗足町だけは消えて無くなりました。日本全国で由緒ある地名が次々消えて行くのは嘆かわしいことです。バス停の名前だけが唯一の救いです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/05 11:37
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
「池上洗足町」とだけ聞くと、なんでこんな池上から離れたところに「池上」の名を冠するのか疑問となりますが、歴史的経緯からすれば、もともと洗足池に近い方が「池上」であって本門寺のある方は池上は池上でも「下池上」。それが本門寺の影響力の強さで、いつしか本門寺が「池上」を代表するようになり、本来の池上は「上池上」(バス停名に残る)とされ、さらに「上池台」となって消えてしまう。
一般的に、「品川」の南に「北品川」があるのはヘンとして注目されるくらいで、あまり歴史的経緯は顧みられないようですが、何とか残していきたいものではあります。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/06 07:35
XWIN II様
池上の地名に関するコメント有り難う御座います。そもそも池上氏の居城が本門寺の所にあり、日蓮上人に帰依したところから発したものでしょう。池上氏の由来からすれば貴殿がご指摘のとおりもっと北の方が池上でしょう。以前に申し上げた通り高輪にある駅が品川となり、上大崎に目黒駅ができたように歴史的経過を無視すると色々矛盾が生じてきます。武蔵の圀にあった神奈川宿が相模の国の県の名前となったようなものです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/06 08:42
「千束と千束」成り立ち、経緯、大変興味深く拝読いたしました。
ありがとうございます。
いつも楽しみにしています。
ところで、最近実家に行くたんびに、ごそごそと、1981年生の亡き祖父の残した地図類を探しているのですが、今回も一つ、おもしろいものを発見しました。
「洗足住宅地平面図」(字体は旧字で、右から読みです)「目黒蒲田電鐵株式會社・田園都市部・電話高輪・三一八八・」というものです。
含まれているのは、
荏原区小山(旧荏原町大字小山字小山全部)
荏原区中延町(旧荏原町大字中延字中延全部)
目黒区洗足(旧碑衾町大字碑文谷字南原池ノ谷原)
大森区北千束町(旧馬込町大字北千束字北千束全部)
です。地番が全部入っていて、道路の大きさも「四間」「二間四分」というふうに、地図上に書かれています。これを見ると、我が実家は、まさに「洗足住宅地」の一番南の端だったんだな、ということがよくわかります。荏原区・目黒区・大森区にまたがり、かなり広範囲の詳しい地図になっています。
そして、駅が三つ書かれています。
一つは、洗足駅。これがまさに、この「洗足住宅地」の中心となる駅でして、その周辺に「池月駅」と「東洗足駅」があるのがわかります。
少し不思議に思うのは。
この「洗足住宅地」北部分と南部分に分かれており、間がぽっかりあいています。ここは何だったんでしょうかね。畑のまんまだったのかな。地図をお見せできるといいんですけど。言葉だとわかりにくいですね。
なお、「池月駅」の間近まで、地図上、洗足住宅地に含まれています。
投稿情報: りっこ | 2010/05/06 09:03
「洗足と千束」の間違えです。誤変換してしまいました。
すみません m(_ _)m
投稿情報: りっこ | 2010/05/06 09:03
りっこ様
私の住んでいた通称南台と北部との間に有隣社住宅があり、洗足会はその地域で南北に分断されていました。そこは全く異なるコミューにティーが形成されていました。震災の罹災者の為の住宅であると聞いていますが田園都市会社が買収できなかった経過については詳しいことは知りません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/06 20:36
りっこ様
有隣社住宅について
品川区西品川の平和坂のところで震災復興住宅の記載がありますが、単独での情報はありません。
田園都市部の地図は洗足池の図書館の地図で見る大田区にも掲載されていますが不鮮明で分かり難いので非常に貴重です。ご実家はN響の練習場の近所でしたら当時の中延町1156番地あたりでしょうか。品川図書館にあった洗足会館に関するパンフレットの役員の電話番号も高輪あるいは青山電話局となっていますので当時は山手線の外には電話局が少なかったのでしょうか。住居の番地も何回も変わって覚えきれません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/07 09:52
木造院様 ありがとうございます m(_ _)m
そう言えば、以前このブログで、有燐社住宅のお話が出ていましたね。そのときは、私、どーも、いまひとつ理解できなかったんですが、実家から出てきた地図により、ようやくわかりました!
それで、本日、港区の図書館に行きまして。そこにあった「大田区史」第3章新しい町空間 第1節住宅地 (3)田園都市会社と同潤会 のところに、全く同じ地図がありました。もっともこちらは地番は入っておりません。
でも、洗足田園都市が、木造院様がおっしゃられるところで、パックリ南北に分かれている様は、よくわかりました。
我が実家から出てきた地図について、母いわく。私の祖父(父の父)が、家を購入するに際して、取り寄せた地図ではないか、とのことでした。この平面図上では、我が家には地番がなく、「イロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレソ」という区画になっています。「イ」「ロ」というのが一つずつの区画です。ここはまだ「地番」がつけられなかったんでしょうかね。
投稿情報: りっこ | 2010/05/07 19:45
本日、「三康図書館」に行ってきました。東京タワーのお向かいです。
この「康」が、西武の堤氏の名前から取ったものであり、この図書館、としまえんの中に建設の予定もあったということ、初めて知って興味深かったです。
ここは、本当に古い資料があるのですね。びっくりしました。
私が見てきたのは、「還暦記念 洗足幼稚園(大正15年)」「荏原町史(昭和2年)」「荏原名勝(大正13年)」等です。
感心したのは、こんなに古い時期のものなのに、写真が結構使われていること。
XWIN II様に、ここでお願いなのですが、もし、「洗足幼稚園」等古い資料をお持ちなら、ぜひ写真をアップしていただけないでしょうか。
洗足幼稚園にある、四百百荘庭園の写真とか、荏原名勝にある日蓮像、また荏原町史の同潤会住宅や目黒蒲田電車の小山駅、池上電車の荏原中延駅は、写真として、価値のあるものではないかと思うのですが。
当時の戸越通り商店街、蛇窪通り商店街の写真も結構クリアに載っています。
もし、一考の余地がありましたら、よろしくお願い申し上げます m(_ _)m
その「洗足幼稚園」こんなことが書かれておりましたのが、私てきにおもしろかったです。(現代用字にしてあります)
「本園保育終了後の幼児の行く先につきては、町立の小学校はもちろん、慶応義塾幼稚舎、白金小学校、成城学校、聖心女子学院等と交渉してその承諾を得、入学につき相当便宜の途を講じ(後略)」
すごいっ!慶應幼稚舎に優先入学できるなんて!
この幼稚園、相当名門ですね。
最近の中学校の同期会で。夫婦坂にある「白百合幼稚園」が、実は国立小学校や、田園調布双葉に行くために、特別教室を付設していたのだ、ということを、同幼稚園卒園の中学同級生から聞き、かなりこれまたビックリしました。私も同じ幼稚園卒なのですが、何もなかったので……ていうか、そういうコースがあったのね。ということを今さら知ったわけです。
この洗足幼稚園も、有名私立小学校へ行くための、ステップ幼稚園みたいな、そんな位置づけだったんでしょうか。
投稿情報: りっこ | 2010/05/07 20:03
木造院電車両マニア様
実家の地番ですが、恐らくそのあたりでは……と思いますが、私がわかるのは、その次ニ変更された地番あたりからで、父親に聞いても、はっきりした答えが得られません。
大昔は、字大原北とかも言っていたらしいですね。
投稿情報: りっこ | 2010/05/07 20:09
りっこ様
洗足幼稚園
洗足幼稚園は私の妹と弟が卒業生ですが残念ながら空襲で写真は全て焼失しました。私自身は極度の虚弱児童で通園に堪えられませんでしたが、小学校の4年生の頃から突如体質が変わり兵隊検査も甲種合格でした。夫婦坂の白百合幼稚園はカトリック教会の隣にありましたが、始めは米軍のかまぼこ兵舎を改造したものでした。私立の小学校の入学試験にしても子供の学力を試す方法は実際にはありませんので幼稚園の推薦が重要な役割を果たしていることも事実です。
洗足田園都市
現在の住居地図と比較対照してみましたが現在の小山7丁目と荏原7丁目の境が上手く噛み合いません。XWIN II様の調査を期待しております。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/08 07:27
写真に関してなんですが。
あれから息子がいろいろ考えてくれまして。
ネット上にフォルダをつくり、そこからダウンロードする、という方法を編み出してくれました。これだと、ここでの写真公開も可能かな、と期待しつつ、やってみようと思っています。
http://firestorage.jp/download/f3e22deba7b66a470c954fc148a0d2212f7a0572
上記の番地をクリックしていただいた後、H22.05.07のところをさらにクリックしていただきますと、四つの写真フォルダが出現します。
それをそれぞれ開いていただきますと、写真が出てきます。
出てくるといいんですけど……
やってみました。
投稿情報: りっこ | 2010/05/08 07:47
コメントありがとうございます&多少遅れました。
興味深いお話が多く、どこから手を付けてよいやら状態ですが、気付いた順で以下に。
>「洗足住宅地平面図」(字体は旧字で、右から読みです)「目黒蒲田電鐵株式會社・田園都市部・電話高輪・三一八八・」というものです。
この地図は私も見たことがありますが、いかんせんガラスショウケース内展示品的な状態でしかホンモノを見たことがありません。目蒲電鉄名で出ているので昭和3年以降、かつ洗足公園駅と改名していないので昭和4年までのものと思いますが、手に取ってみてみたいという気持ちはありますね。
>この「洗足住宅地」北部分と南部分に分かれており、間がぽっかりあいています。
既に対応コメントが付いているとおり、ここは田園都市株式会社が買収できなかった土地です。よって分断された格好になっているわけですが、どういう経過で細分化された住宅が展開するようになったかまでは調べがついていないです。
>この平面図上では、我が家には地番がなく、「イロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレソ」という区画になっています。
まだ確定と言えるものではありませんが、イロハ番号は田園都市株式会社の分譲でなく、目黒蒲田電鉄田園都市部の分譲ではないかと手持ち資料からは考えています。ただ、りっこ様のおじいさまがイロハ番号をご購入されたとしたら、購入相手はどこだったのかご教示いただけるとありがたいです。下手な推論よりも事実、ですので。
>もし、「洗足幼稚園」等古い資料をお持ちなら、ぜひ写真をアップしていただけないでしょうか。
手持ち資料が多すぎて山積み状態、という家人からも非難を浴びるほどですので、家の中にあっても探すのが困難という実態がありますので、なかなか右から左へと資料が出てこない場合がある点はご容赦願います(下手すれば、図書館で探した方が早いかも)。以上を前提としてですが、まずは合間に探してみます、という回答でごめんなさい。
>大昔は、字大原北とかも言っていたらしいですね。
地籍としては、イロハ番号の所は明治初期の地租改正以来、昭和7年の東京市合併までは字大原北(あざ おおはらきた。なお、北とあるが南や西、東はない)で、所属が中延村→平塚村大字中延→平塚町大字中延→荏原町大字中延に変わっているだけです。これ以外に、いわゆる通称地名的なものとして、洗足、田園都市、南台等があったということですね。なお、地籍上の番地(いわゆる地番)と分譲地番号とは別で、田園都市時代の表札には両方並記していたものもあったようです(田園都市150番、1466番地。のように)。
>現在の住居地図と比較対照してみましたが現在の小山7丁目と荏原7丁目の境が上手く噛み合いません。
洗足田園都市については、地域歴史研究で取り上げる予定で資料も集めてあるのですが、いかんせん、作図にかなり時間が取られるだろうと見込んでいること。池上電気鉄道VS目黒蒲田電鉄シリーズの総括として奥沢線(国分寺線)を取り上げる予定であること。これらの理由から、もう少し時間をいただくつもりでおります。ただ、ご指摘の部分については先行して取り上げる「かも」しれません。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/08 08:24
りっこ様、コメントありがとうございます&写真もありがとうございます。
素晴らしい御子息様がいらっしゃって羨ましい限りです。
さて、早速写真を拝見させていただきました。いずれも興味深いものばかりですが、中でも洗足住宅地平面図はッ! 可能であれば、欠けた右側部分もお願いできればありがたいです。
ほかに、私的には四ツ塚通りに興味がありますね。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/08 08:48
祖父は86歳まで存命でした。父と違い、最後まで頭がクリアだったので、いろいろ聞いたら、おもしろいこと、いっぱい知ってただろうなと。おまけに、祖父は鉄道省勤務でしたから、そっち方面でも詳しく知っていたと思います。現在の鉄道信号機のもとを考案した人でありました。
今度実家に行ったら、家の購入に関する資料がないか、母に聞いてみようと思っています。
先日行ったときには、ガラス板のネガを渡されまして、試しに近くの写真屋に持っていったら、「こんなの見たの初めてです!」と、驚かれましたが、1枚200円で1週間かかるけど、現像可能とのこと。父がまだ幼いころの写真なので、80年以上前の写真、ということになります。場所は実家です。全面改築していませんが、そのころの写真と今とではやはり違いますね、窓とか、家の位置も若干。
調べれば、どんどんと「謎」が出てきて、興味が尽きません。こういう場を与えてくださり、知識を授けていただいているXWIN II様、木造院電車両マニア様、本当にありがとうございます。 m(_ _)m 感謝しております。
投稿情報: りっこ | 2010/05/08 09:08
>イロハ番号をご購入されたとしたら、購入相手はどこだったのかご教示いただけるとありがたいです。
今、母に電話で聞きました。
詳しい書類は、実家に行ったときに改めて、ということなんですが、XWIN II様ご推察どおり、「目黒蒲田電鉄株式会社」より購入、ということのようです。
書類を見たら、また改めてその折にコメントしますね。
投稿情報: りっこ | 2010/05/08 09:58
何回も書き込みして、申しわけありません。 m(_ _)m
昨日の写真の次のものをまたアップさせていただきたく思います。
http://firestorage.jp/download/7844f940387f73bdc20ca763771dff111211f788
なお、洗足田園都市の平面図は、半分ずつにして、スキャンしました。
これが、完全な姿です。
日蓮像は、大正13年当時のものと、もう少し新しい、昭和に入ってからのもの(風致協会「洗足池」に掲載されている写真)を対比してみました。後年、いろいろ飾りがついたのがわかります。立派にしたのに、移転してしまって、まことに残念です。今でも納得できてません。
次は洗足幼稚園の園児たちの姿。ここの幼稚園って制服があったのかなぁ~みんな似た格好をしていますが、どうなんでしょうか。でもどことなくハイソな雰囲気がただよいます。昭和2年当時、「荏原町」には、幼稚園は4つしかありませんでした。
大正2年創立 昭和園 下蛇窪
大正12年創立 成志幼稚園 戸越
大正15年創立 洗足幼稚園 中延
大正15年創立 小山幼稚園 中延
そして大正13年の荏原郡鉄道全図です。
「目黒蒲田予定線」
「池上変更線」「池上未成線」
などの文字が見られます。
投稿情報: りっこ | 2010/05/08 11:12
りっこ様、コメント含め色々とありがとうございます。洗足住宅地平面図もアップいただき、感謝申し上げます。
やはり、いつも思うことは「実際の体験」に勝るものはないのだなぁということで、今回もこの思いを新たにしております。こちらこそ、感謝してもしたりないくらいで、何とかご期待にそえるような記事をあげていきたいと思います。
で、面白いなと思った点は。
>大正2年創立 昭和園 下蛇窪
大正時代のうちから昭和を名乗る先見性にびっくりです。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/08 11:24
「昭和園」
あ w(゜o゜)w 本当だ!!
実は私、XWIN II様に言われるまで、気づきませんでした。さすがです!
すごいですね。この幼稚園、大正の初期創立なのにね。
「荏原町史」これはすぐれものです。
付録のところに、「宣伝写真」が数多く使われています。工場とか、お医者さんとか、演芸館とか。これは、その後の「区史」を見ると、ないんですよねぇ。
私は、旗の台駅にあった玉キ座(キは七が三つ)の写真を探しているので、ぜひ後の区史に写真が載ってほしいのですが。
また、サイカチ坂のいわれも、きちんと説明されていました。
今、品川区のホームページをみると、さいかち坂の言われが、あやふやです。こうも言われているし、こうも言われているとか書いてありますが、実はそれは正解はこうである!というのがよーくわかります。これも、XWIN II様が、ご紹介くださった、「1枚の写真・洗足幼稚園」のところについていた地図と一緒にその文章を読むと、深く理解できて楽しいです。
なお、実家に関する補足ですが。
洗足田園都市平面図は、昭和4年です。この年に祖父が土地を購入しておりますので。
で、これは父の話なんですが(昔聞きました)このイロハニホヘト部分と、数字の記入されている部分は、土地のお値段がかなり違ったみたいです。
祖父は地方出身で、たった一人の稼ぎで土地を購入したので、鉄道省にいた関係で、この土地の情報が入るのは早かったのですが、高い価格の土地帯は、購入できなかったとのこと。でも、洗足駅周辺より、今の場所の方が便利なんですけどね。
それからもう一つ。
購入書類には、同じく目黒蒲田鉄道から土地を購入した人の地番と名前の入った名簿が配られたみたいで、実家にあるそうです。
実家のあたりで、残っているのは、我が実家を含めて3軒のみ。
昭和は遠くなりました………………うちの実家って、頑張ってますよね(^_^)v
投稿情報: りっこ | 2010/05/08 18:50
りっこ様
日蓮上人の像の写真を拝見して子供の頃を思い出しました。有り難う御座います。私の母方の祖父も明治元年生まれで鉄道技師でした。最後は台湾総督府で台南までの建設に従事しました。私の母も台北を振り出に建設の速度に応じて最後は台南に住んでいたようです。りっこ様のお爺様も鉄道の保安関係の技師をされていたとのことですが、私のあくまでも個人的趣味として鉄道信号と連動装置に特に興味を持って若い時から研究してきた次第です。日本信号の設立者の三村周氏は日本鉄道時代に祖父と同じ職場でした。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/08 23:21
りっこ様
田園都市特に洗足田園都市の購入者の多くが高級官僚であったために戦後は預金封鎖、財産税、公職追放の洗礼を受けて大打撃を受けたこともまた事実です。諸行無常は世の常ですので致し方の無いことですが一抹の寂しさも感じます。番地ですが一番古いものは同じ番地でイロハを付けており、別に田園都市の番号プレートがあったような気がしますが定かではありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/09 10:43
コメントありがとうございます。
まとめて対応で申し訳ございません。
>付録のところに、「宣伝写真」が数多く使われています。工場とか、お医者さんとか、演芸館とか。これは、その後の「区史」を見ると、ないんですよねぇ。
これはやはり「公共」の名の下に、だと思いますね。町だった頃は、新興住民は多いけれど、古くからの方々からすれば「吾らが町」といった感が強く、それこそみんなが「こんなに発展したんだ」みたいなお祝い感覚で、広告を打ってあげたというのかなぁ、と。町史を出すにはカネがいりますが、寄付的な感じで出したのではないでしょうか。
その後は、公共のものに私的なものはまかり成らん! という。
>昭和は遠くなりました………………うちの実家って、頑張ってますよね(^_^)v
イロハ番号の補足等も含め、ご教示感謝いたします。確かに昭和は遠くになったと思います。平成22年ですから、今年は。大正を越え、明治の約半分、昭和の約3分の1ですから遠くですよねぇ。
古い家を維持・管理されるのは本当にご苦労が多いかと推察いたしますが、大事に使えば長持ちするのは何でもそうかなぁ、とも。
さて、洗足田園都市についてはあまり先送りするのもどうかなと考えていますので、近いうちに開始予定の池上電鉄奥沢線の次あたりを予定していると、ここで軽めに宣言しておきます。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/10 18:58