洗足か千束なのか 前編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)
洗足か千束なのか 中編(シリーズ「池上電気鉄道 VS 目黒蒲田電鉄」)
田園都市経営協会(田園都市株式会社の前身)が田園都市計画推進のために事業用地買収の話を水面下で進めている最中、起こった予期しないアクシデントとは土地価格の暴騰である。無論、投機目的によってのもので、理由は池上電気鉄道建設計画に伴うものだった。しかし、この地域には明治後期より武蔵電気鉄道の建設計画があり、この進捗状況は図面以上のものから進まずに頓挫しており、これよりもさらに信用力が乏しいとされていた池上電気鉄道は、武蔵電気鉄道以上に進捗状況が危ぶまれていた。にもかかわらず、なぜこの計画によって投機目的として動いたのだろうか。
答えは、田園都市経営協会が池上電気鉄道を活用する、という話が伝わったためである。池上電気鉄道単体では、地図に線を引いた以上の価値を見出すことはできないが、これに田園都市経営協会(=渋沢栄一)がバックにつけばどうなるか? 豊富な資金力に信用力、渋沢栄一という金看板はこれに勝るものはなく、一気に池上電気鉄道が現実味を帯びてくるというわけである。これにより、池上電気鉄道の計画地と田園都市の計画地が重なる周辺の土地価格は一気に跳ね上がり、駅ができる・できないに関わりなく土地価格が上昇すると考えるのは自明だろう。これにより、洗足池畔周辺として計画していた用地買収計画は大きく後退してしまう。そのためか、すぐに田園都市経営協会側は池上電気鉄道との関係を解消するアナウンスを行ったり、のちに荏原電気鉄道による鉄道計画を特許申請する際、意図的にのちの洗足地区をはずすような計画とするなど、苦心の跡が伺える方策を打ち出した。だが、坪2円50銭程度で買収することが困難(10円以上に跳ね上がっていた)となって、田園都市株式会社が成立して以降に方針を大転換。洗足池畔での用地買収を諦め、田園都市計画の中心地を今日の田園調布地域に移したのである。これは、土地の価格が安いだけでなく、多摩川を見下ろす景勝地だったという理由が大きい。
田園都市側から誘惑してきたのに、いきなりはしごを外される格好になった池上電気鉄道は、建設資金の目処がまったく立たなくなり、武蔵電気鉄道よりも劣る扱い然となって、苦し紛れの遅延・延期申請を繰り返すだけとなった。普通ならこれであっさり特許(免許)取り消しによって消滅する運命となるのだが、救いの手が差し伸べられる。それは、城東電気軌道株で味をしめた貴族院議員 高柳淳之助であった。が、この話は本スジではないので省略し、とにもかくにも池上電気鉄道が消滅の道を歩むのではなく、投資用に集めた豊富な資金力を背景(実際に使ったのは一部かもしれないが)に用地買収と鉄道建設に邁進するのである。
だが、洗足池を舞台として対決するのは、もう少し先のこととなった。それは、池上電気鉄道の鉄道敷設がなかなか進まなかったからで、大正11年(1922年)に支線の池上~蒲田間を開業後、翌大正12年(1923年)に池上~雪ヶ谷間の部分開業がなって以降、建設工事は頓挫する。後発だったはずの目黒蒲田電鉄は、目黒~蒲田間を先行開業させることに成功し、池上電気鉄道の免許線と完全に始点と終点が同じになってしまうためである。池上電気鉄道は、建設資金の問題も合わせ、なかなか目黒駅に代わる接続駅を設定できず、正式に五反田駅を接続駅としたのは、雪ヶ谷駅まで開業してから約3年も経過していた。その後、高柳体制から川崎貯蓄銀行系の体制に代わってからは、資金の問題も当面はなくなり、昭和2年(1927年)に複線化工事を完了、雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅、次いで大崎広小路駅まで延伸し、翌昭和3年(1928年)に五反田駅まで接続することとなったのである。この間、洗足池駅は雪ヶ谷~桐ヶ谷間の部分開業時に誕生した。
洗足池駅は、池上電気鉄道が大森~目黒間の建設計画を立てて以降、常に洗足池近辺を通過するよう計画され、事業目論見においても洗足池への遊覧は池上本門寺参詣に次ぐ大きなものだったことから、駅の開設は当然だが、駅名については最初からすんなり「洗足池」駅となったわけではなかった。少なくとも建設計画が具体化し、駅(停留所)の図面においては「洗足池前」駅が仮駅名として予定されていた。だが、結果は「洗足池」駅となり、「~前」とはならなかった。理由については、残念ながら定かではない。ただ、当時は既に田園都市株式会社・目黒蒲田電鉄の洗足ブランドは金看板となっていたこと、さらに「~前」という局所的な言い方よりもそのものずばりの名前とした方がいいという判断が働いていたかもしれない。
一方、池上電気鉄道の洗足池駅開設とほぼ同時期に、ライバルである目黒蒲田電鉄は支線となる大井町線を開業した。大岡山駅から分岐し、大井町駅に至るこの路線は、出自としては田園都市株式会社の初期計画線に由来する古い計画であったが、目黒~蒲田間を優先させたのは、池上電気鉄道に先んずることが戦略上有効だったからに他ならない。しかし、この結果、洗足駅からほぼ東に直線ルートで結ぶ計画は、住宅が建て込んだことで現実的でなくなり、新たなルートを検討しなければならなくなった。ここで目を付けたのが、荏原郡馬込村の千束地域が設立した千束耕地整理組合が施行する耕地整理事業だった。耕地整理組合を相手にすれば、鉄道用地買収は複雑な権利問題の話をほとんど行わなくて済むだけでなく、施工後(実際には施工中からも)はすぐに鉄道建設工事が行えるということも大きなメリットとなった。同じような話を平塚第二耕地整理組合とも話をつけ、最も困難といわれていた大井町駅の接続についても、鉄道省用地との等価交換という奥の手を使い、大岡山~大井町間の線形は確定した。このとき、千束耕地整理組合は鉄道用地を提供したのだから組合地の中に駅を作るものと思っていたが、結果は大岡山駅の次は東洗足駅となって、組合地には鉄の道だけが作られた。これは駅間が短いことが最大の理由だが、目黒蒲田電鉄も駅を作る以上、自身の分譲地に有利なような駅配置とするのは当然であった。
(下図参照。昭和2年8月、池上電鉄が桐ヶ谷駅まで延長した直後をイメージした路線図。)
だが、話が違うと地元は反発し、結果は大井町線開業の翌年、大岡山~東洗足のほぼ中間に新駅を設置することが決まり、駅名はこれも地元要望で池月と決まった。地元千束地域としてはせっかくできた駅ということで、ここが将来商店街になるだろう、洗足池への観光拠点となるだろうという期待を込めて、当初は簡単な駅設備しかなかったものに対し、交通の邪魔となる駅前踏切下を掘り下げ、鉄道を高架としてアクセスしやすくするなど、駅前通りを整備した。だが、今日見れば明らかなように商店街と呼ぶべきものができたかは微妙で、間違いなく東急大井町線各駅の中で、もっとも繁栄していない駅前と言える。これは、目黒蒲田電鉄が当初より駅を設けなかったことから「必然」ともいえるものだが、それでも開業当初は目黒蒲田電鉄にとって重要な意味を持っていた。それは、目黒蒲田電鉄にとって洗足池への最寄り駅という位置づけにあった。
次回に続く。
洗足公園駅
情報有り難うございます。
北千束駅の大井町寄りの踏切の南側に生月自治会の表示がある街灯が残っていました。戦前は赤松小学校側には商店街がありましたが片側が小学校ですのであまり発展しませんでした。昔は大井町側の踏切からホームに昇れる階段が設けられ下から迂回してホームへ階段で昇る手間を省けるようなサービスを行っていましたが、環七に抜ける道が田園都市の分譲地となっていることがわかりましたので多分土地購入者に対するサービスだったのでしょう。当時は市電のように車掌が切符を車内で切っていましたので改札口を通らないで乗車が可能だったのでしょう。その後乗客も増加したのでこのサービスも廃止されました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/04 12:13
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
北千束駅の構造を見ると、昔の1~2両時代から駅東側踏切側までホームがあって、おおせのとおりショートカットしやすい構造であり、本来的にはこちらに改札があった方が自然かと思います。しかし、そうしなかったのは地元の圧力の結果であったことは容易に理解できるところですが、わざわざ高架化してまでの結果がこうでは…。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/06 07:30
目黒蒲田電鉄の分譲地の図面を見ると駅は洗足公園となっており環七からの道の両側が分譲されています。人件費の関係からも二カ所の改札口は容易ではありません。石川台駅も石川町側に改札口ができたのもかなり後でした。
改札口は商店街にとって売上げを左右するので死活問題です。都営地下鉄の五反田駅や京浜急行の蒲田駅も設計や建設そのものより議員の介入もあって地元の利害の調整に多大な時間を費やさなければならないのが現実です。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/06 09:20
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
最近…ではありませんが、かつての東急玉川線(通称玉電)が廃止になって新玉川線(現 東急田園都市線の一部)が建設されるとき、路面電車の駅間隔で地下線の駅をそのまま作るわけにもいかなかったことから、根深い争い(訴訟にも発展した)がありました(駒澤大学駅出入口関連ほか)。
ご指摘の京急蒲田駅に関しては、羽田空港への最優等電車は京急蒲田駅を飛ばすという話で、地元が猛クレームをつけています。理屈の上では、蒲田に止まる理由なんてありませんが、地元利害上は理由がたくさんあるということなのでしょう。
地元の利害関係を無視するわけにはいかないとはいえ、他社との競争の際、足を引っ張られて沈没するわけにもいかず、営業上利益無しと。もし、どうしても止めさせたいのなら、武蔵小山商店街のように電鉄会社に金を払うくらいのことをしないとだめでしょうね。
投稿情報: XWIN II | 2010/05/08 08:33
XWIN II様
都営地下鉄の五反田駅でも桜田通り側に駅が出来たために旧中原街道にそった商店街の凋落は誰が見ても明らかですが、建設費や速度を維持するための公共性を優先することはやむを得ないでしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2010/05/08 23:28