前回の続き。
P120「新奥沢線」
正しくは奥沢線。
P120「新奥沢線とは、雪ヶ谷と国鉄(省)中央線の国分寺を結ぶ構想で建設されたもので、最初の計画では田園調布駅の北東側に駅を設けるものであった。」
新奥沢線は奥沢線が正しい、というのはふれているので以下は採り上げない。この文の前提は「鉄道廃線跡を歩く VII」中の「池上電気鉄道新奥沢支線」を参考にしていると思われるが(お仲間の関田克孝氏が書かれているので信用されているのだろう)、記事が誤っているのはもちろん、これが最初の計画ではない。どこまでが最初か、というのはあるが当局に免許申請(計画)を提出したものを最初と見ても、本文で示すこの計画は二番目以降(雪ヶ谷駅~田園調布東側)なのである。
最初の計画は、というと昭和2年(1927年)12月16日免許申請前の12月10日に、池上電気鉄道社長・専務連名で「御請書」なるものが鉄道省に提出されている。内容は、「出願ニ係ル弊社線調布大塚駅ヨリ分岐シ目黒蒲田線調布ニ至ル一哩及更ラニ延長シテ省線国分寺駅ニ至ル十三哩計十四哩ノ鉄道敷設ニ関シ御免許ノ上ハ工事施行認可申請ニ際シ弊社線雪ヶ谷駅ヨリ分岐シ玉川村奥沢部落ニ於テ目黒蒲田線ト交叉スル事ニ設計可仕此段御請申上候也」とあるように、当初は雪ヶ谷駅からではなく調布大塚駅から分岐する予定としていたことが確認できる。そして、調布大塚駅は、池上~雪ヶ谷間の開通時になく、昭和2年(1927年)8月19日に遅れて開設されている。
もう、おわかりだろう。調布大塚駅は、初めから国分寺線(奥沢線)建設計画のために設置されたのである。また、御請書をよく読んでみると、国分寺駅への延長計画以前に目黒蒲田電鉄の調布駅(田園調布駅)への接続を目論んでいることがわかる。そして推測だが、単に田園調布駅に接続するだけの路線では免許を得る感触を当局から得られなかったために、あくまで国分寺までの延長計画があって、そのための田園調布駅まで接続したいのだという言い訳めいたものを感ずるのだ。
と、これ以降は別の機会に譲るとして、奥沢線に対する筆者の理解は今ひとつであることを指摘するにとどめておく。
P120「このころ、目蒲電鉄は、大岡山-二子玉川間の新線を計画中であり、玉川全円耕地整理組合と提携して鉄道用地を確保していたのである。この沿線では、諏訪分の耕地整理組合の工事が進行中で、池上電鉄の買収金5万円が工事進行費用として活用されていた。区画整理後、町名を東玉川としたのである。」
上引用文はどこで切ろうと悩んだが、結局すべてについて指摘する。まず、玉川全円耕地整理組合について。これは、荏原郡玉川村すべてを耕地整理しようという意欲的な試みだったのだが、既に目黒蒲田電鉄によって奥沢駅が開通していた周辺と、まったくこれから隔絶された地区との地主間の対立が先鋭化し、刃傷沙汰等が起こるなどして耕地整理事業が進まなかっただけでなく、組合の解散の危機も迎えていた。そこで、当時の荏原郡選出(当初は東京12区)の衆議院議員高木正年氏(胸像が東京都品川区南品川一丁目の妙蓮寺にある)に相談し、耕地整理の工区で複数に分割するヒントを得、工区単位で耕地整理を施行することにした。なので、玉川全円耕地整理組合と言っても工区単位で会計単位が異なるなど、他の耕地整理組合とは形態が異なっていたことを理解しておく必要がある(それまでは工区が分かれていても、玉川全円耕地整理組合とは異なり、形の上だけでなく本当に工区単位で独立して決算をするなどあり得なかった)。
そして、本文に出てくる「諏訪分の耕地整理組合」とは、玉川全円耕地整理組合の諏訪分工区のことであり、言うまでもなく目蒲電鉄(五島慶太)が玉川全円耕地整理組合と提携していたとするなら、池上電気鉄道は線路用地を買収できなかったはずである。にもかかわらず、池上電気鉄道が耕地整理組合から土地を買収できたのかと言えば、玉川全円耕地整理組合は名ばかりで実質は工区単位で行われていたからに他ならない。
また、目黒蒲田電鉄の二子玉川までの線路計画は当初、奥沢駅から分岐する予定であり、事実そのとおりに免許を取得していたが、現在の東横線との関係から分岐駅を大岡山駅に変更した。これが奥沢駅周辺の地主を反目黒蒲田電鉄派に変えてしまい、奥沢東工区も提携関係どころか一部は敵対関係と言って良かった。これらのことから、「玉川全円耕地整理組合と提携して鉄道用地を確保」という表現が不適切であることがわかるだろう。そして区画整理後、町名を東玉川としたのではなく、東京市合併時に世田谷区になった際に東玉川となった。
P120「調布学園の東側に接しているので、生徒専用の感があったという。」
諏訪分駅の項。前回にもふれたが、調布学園でなく調布女学校(現在の名で言うのなら田園調布学園。調布学園と名乗るのは戦後)が正しい。
P121「昭和8年(1933)6月1日 雪ヶ谷大塚として開業」
雪が谷大塚駅の項。この日は、調布大塚駅が廃止となって雪ヶ谷駅と統合された日であるが、雪ヶ谷大塚駅と名乗るのはそれよりも10年ほど後のこと(同時代資料の地図や写真等で確認しても「雪ヶ谷大塚」等とこの時期になっているものは一つもない)。調布大塚駅との統合をもって雪ヶ谷駅を廃止扱いとし、この日から(新)雪ヶ谷駅とするならまだしも、何をどう錯誤したのか(他書籍でも見られる誤りだが)。勘違いと信じたいが…。
P125「大正15年(1926)8月6日 慶大グラウンド前※として開業」「※開業初期の「池上電鉄沿線案内」によると表記は「慶大グラウンド前」となっている。」「開業時の駅名は、「光明寺」と『池上町史』には記されているが、『東急50年史』には「慶大グランド前」となっている。」
千鳥町駅の項。著者は東急電鉄出身であり、これまでも他の著書等で「慶大グランド前」だと主張していたが、さすがに東急50年史だけではだめだと気付いたのか、「慶大グラウンド前」と「光明寺」を併記するようになってきた。しかし、確証を得られていないのか、東急50年史を誤りだと言い切れないのか、歯切れの悪さは残っている。
近いうちに当Blogでこのあたりの経緯は記す予定であるが、まず、光明寺駅と慶大グラウンド前駅は併存していた時期があるという事実から、光明寺駅は慶大グラウンド前駅の後継駅でなく、よって千鳥町駅の後継駅でもない。慶大グラウンド前駅に関しては当Blog記事「池上電気鉄道 慶大グラウンド前駅について(確定編)」などに示しているように慶大グラウンド前駅が正しい。これだけふれておけばいいだろう。
なお、同ページに元TBSアナの吉村光夫氏の話が引用されており、その中では「慶大グランド前(駅)」とあるが、仮にそう言っていたとしてもそれは記憶の内容なので、氏の言であるとするならこれを誤りとはしない(そう言っていたということなので)。
P126「雪ヶ谷への延伸にあわせて、複線化とともにホームを西へずらして曲線の相対式ホームとして、東側の急曲線が解消されるとともに駅前広場が誕生した。」
池上駅の項。複線化は雪ヶ谷への延伸に合わせてでなく、その次の桐ヶ谷(目指したのは五反田)への延伸に合わせてであり、誤り。複線化とともにホームを西へ云々は、東側の急曲線は昭和8年(1933年)の航空写真でも解消されておらず(地図はあてにならないが、航空写真は意図的に改変されるもの以外、疑いようがない)、昭和10年代後半に施工されたものである(昭和22年(1947年)航空写真では完成している)。錯誤が著しい。
P128「雪ヶ谷までの延長にあわせて、全線が複線化され~(以下略)。」
蒲田駅の項。これも126ページと同様に複線化される時期を誤っているが、不思議なことに池上駅と蒲田駅に挟まれる蓮沼駅の説明(127ページ)には、「昭和2年(1927)7月25日、雪ヶ谷まで複線となり~」とあり、この年月日が雪ヶ谷までの延長(大正12年5月4日)でなく、桐ヶ谷までの延長(昭和2年8月28日)に合わせてであることは明白であるのに、なぜか誤った解釈をしている。先入観なのだろうか?
以上、池上線に関する部分を二回にわたって指摘してみた。概観して、先入観と言おうか何というか、知識の更新があまり見られない(慶大グラウンド前駅を考慮した点はそうではないが)印象を受ける。まぁ、思い出話くらいならそれでもいいのだが、本書はそうではないと感ずる。第二版の出る余地があるのかはわからないが、JTBキャンブックスシリーズはかなり出るようなので修正版を期待したいものである。
次回は、本書の大井町線部分について検証する予定である。
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