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2010/03/23

コメント

おはようございます。

池上線の話題は、やっぱり嬉しいですね。

ところで一つご質問させてくださいませ。

「東京都35区から22区に再編成」

今は23区ですよね?
ということは、どこか一つ、増えたんですか?

りっこ様、コメントありがとうございます。

仰せの通り、地域歴史研究ネタで池上線ネタは久々のような気がします。同系のネタとしては近日中に、の予定ですが、「幻の?」光明寺駅を取り上げる予定でおります。
そして、ご質問の回答ですが、あれは22と23を書き間違えた…わけではもちろんなく、22区に再編成されたわずか半年足らずの1947年(昭和22年)8月1日に、板橋区から練馬区が分離して23区となったのです。板橋区はべらぼうに広かったんですね。

千鳥町駅
 横須賀の地名は砂浜を示すそうですが、武蔵野台地の南端に沿って古東海道、通称平間街道が走っている所です。昔はこの辺迄海が迫っていたのでしょう。これはあくまでも私の想像です。
御嶽山駅
 入舟と言う名前のお茶か海産物を売る店がジャスコの前にあったような気がしますが、確かではありません。

はじめまして!
とても興味深く楽しませて頂いております。
旗ヶ岡駅が旗の台駅に統合した昭和26年5月時は両駅とも品川区平塚6丁目と思っておりました。
新たな発見です。
今後も素敵な情報を楽しみにしております。
ありがとうございました。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

荏原郡調布村(東調布町)大字嶺の前身である嶺村は、「おそらく」御嶽神社をこの地に持ってきた時期と相前後して、村の小名(字)名を瑞祥名に変更しています。高砂、入舟、千鳥窪、末広などなど。なので、地形に由来した古来よりの地名ではない可能性を指摘できます。

旗ヶ岡っ子様、コメントありがとうございます。

えっと、まずは当記事中にお断りしておりますように「これら変遷の知見については、私の調査に基づくもので構成されて」います。なので、旗の台駅に関しても同じく、私の解釈に基づいています。

旗の台駅は、池上線と大井町線と二線の乗換駅ですが、まず第一に駅のどの部分が属していれば所在地になるのか、という問題があります。駅舎なのか、ホームなのか、線路なのか、あるいは駅員のいる事務所なのか…。
そして、もう一つは住居表示に基づく住所なのか、地番に基づく土地の場所を特定する表記法なのか、という問題。
コメント欄なので、やたら長くするのも憚られますが、駅の場所の定義一つとっても様々な解釈があります。そして、昭和26年時点においては、まだ住居表示制度はできていないので、場所を特定するには地番表記が一般的です。となると、土地そのものを表しますので、駅を特定する場所というものを定義せず、駅舎、ホーム等を駅に属すと解釈すれば、大井町線と池上線はそれぞれ駅は独立して存在するので、両線にまたがる部分に町境が走っていれば、属する町は複数になるというわけです。

今回は、駅舎・ホーム・出入口(改札)の場所を駅の位置として解釈していますので、当記事のような表記としたのです。

末広駅
 名前の由来が分かりました。今も昔も縁起を担ぐのは変わりありませんね。鵜の木と言う地名は武蔵国分寺の瓦にも記載されている古い地名です。目蒲線沿線の地域から区別するために南久が原になったのでしょうか。

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

この末広駅の変遷。最初の項目「東京府荏原郡調布村大字嶺字末広」は私の見解で、通説となったものではないとお断りしておきます(通説は最初から大字鵜ノ木)。
通説でないとした理由は、駅開設当初はこのあたりは耕地整理が行われておらず、耕地整理後の駅の位置は今の久が原駅北側踏切の道路の南側にありますが(現在も)、耕地整理前は道路の北側に駅があり、この道路が大字嶺と大字鵜ノ木の境界だったので、当初は大字嶺だったのではないかと推論したのです。

そして、久が原駅周辺の住所が「南久が原」(元 調布鵜ノ木町等)となり、鵜の木駅周辺の住所が「鵜の木」(元 調布嶺町二丁目等)とされたのは駅の位置に住所を合わせた結果でしょう。善し悪しは別にして。

XWIN II様
鵜の木町
 コメント有り難う御座います。確かに新しい感覚としては久が原の方が高級住宅地のイメージが強いので調布町ではなく田園調布町とするのと同じでしょうか?

慶大グラウンド前
 以前にこの件でブログで取り上げられましたが、あらためて時系列でみると私が昭和8年に第二延山小学校の1
年生として旗が岡から乗車して降りた駅は字横須賀ということになりますが、全く記憶にありません。地図を見ると武蔵新田の方が近いのに洗足からではなく旗が岡としたのは学校からの距離が近かったのかもしれません。

慶大グラウンド前追加
 当時の大勢の生徒と父兄をどのようにして運んだのか疑問がのこります。もし全校参加であれば父兄と合計して2千人ぐらいになりますので二両連結で運んだのではないかと思います。元々山手線で2両一組で運転されていたものですので2両連結も可能ですがホームの長さ等疑問がのこります。戦災等の関係で記録が残っておらず知る由もありませんが数少ない関係者に聞いてみることにしています、

木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。

仰せのように一般的には単行運転がいわれていますが、実際にはどうだったのかは何とも言えないところではあるでしょう(特に臨時運転関連)。昭和8年当時の航空写真からホームの長さが確認できれば、そのあたりの予想についての一定の解は示すことが可能となるかと。

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