「蛇窪」という地名が、かつて東京都品川区にあった。今でもわずかに歯科医院等にその名をとどめているが、いわゆる公式地名としては既に消滅している。この「蛇窪」は、東京府荏原郡荏原町(その前は平塚町、さらに前は平塚村)に所属する大字で、上下をそれぞれ冠して「上蛇窪」と「下蛇窪」があった。平塚村が成立する前は、それぞれが単独村として存在しており、古い歴史を有する地名である。
「蛇窪」の由来は、歴史の古い地名ではよくあるように、由来そのものははっきりしない。だが、「蛇窪」は地域を流れる河川に由来するのはほぼ確実と思われる。今は川が流れる様子を地上から見ることはできないが、河川改修以前の当地域を流れる川は、蛇行著しい水路だった。
と、地名の由来については置いておいて、長い歴史を有する「蛇窪」という地名に危機が訪れたのは、当地が平塚耕地整理組合によって区画整理がなされ、住宅地として大きく発展する時期と機を同じくする。昭和7年(1932年)5月、当地域が東京市に編入されるという議論が沸騰している最中、上蛇窪地域選出の町会議員、岩淵喜宗治は以下の建議書を提出した。
(参考資料「最近荏原町政史 全」鏡省三 著。204~206ページ)
建議書
荏原町大字『上蛇窪』『下蛇窪』ト公称セル字名称ヲ改称セントス
理由
町村内ニ従来公称セル字名ハ往古ヨリ伝来ノモノ甚タ多ク土地訴訟ノ審判歴史ノ考証地誌ノ編纂等ニ要用ナルヲ以テ容易ニ改称スヘカラサルハ大正五年内務省訓令ニ依リ明白ナル処ナルモ然共世運ノ進展亦其地方ノ実情ニ鑑ミ其ノ不適当ト認識セラルルニ至リタル場合ハ之カ適当トスル名称ニ改称変更スヘキモノニシテ之亦己ヲ得サルモノト云ハサルヘカラス
顧ミルニ当町大字上蛇窪下蛇窪ト公称セル字名ハ古来相当ノ由緒ノ存スヘキハ言を俟タサル所ナルモ今ヤ数万ノ人口ヲ包容シ全ク都市ノ形態ニ化シ商業発展ノ中核地域トナリ将亦住宅地域トシテ現在及将来益々発展ノ気運ヲ醸成シツツアリ由来我国民性ノ蛇ヲ嫌忌スル感情ヨリスルモ亦此ノ都市文化ノ中心タル地名ニ蛇窪ナル名称ハ恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク到底不適当タルヲ免レス
如上蛇ノ一文字ヲ排セス或ハ上町下町ト称スルモ将亦上窪町下窪町ト云フモ可ナリ今ヤ此ノ地方モ大東京ニ編入セラレントシ将来一層ノ都市文化発展ノ期待スヘキ時機ニ際会シタルヲ以テ此ノ機ヲ逸セス最モ適当ナル字名ノ改称スヘキモノナリ
右理由ニ依リ町当局ハ速ニ本案ヲ会議ニ附シ委員ヲ設ケ精査研究ヲ逐ケ改称ノ実現ヲ計ラルヘキモノトス
右建議候也
昭和七年五月十六日
荏原町会議員
提案者 岩淵喜宗治
賛成者 沖要
同 小林寛一
同 平賀亮治
本文部分を一部、読みやすくしたものを以下に掲げる。
町村内に従来公称せる字名は、往古より伝来のものはなはだ多く、土地訴訟の審判歴史の考証、地誌の編纂等に要用なるを以て、容易に改称すべからざるは大正五年内務省訓令に依り、明白なる処なるも、しかずとも世運の進展、またその地方の実情に鑑み、その不適当と認識せらるるに至りたる場合は、これが適当とする名称に改称変更すべきものにして、これまた己を得ざるものといわざるべからず。
顧みるに、当町大字上蛇窪、下蛇窪と公称せる字名は、古来相当の由緒の存すべきは言を俟たざる所なるも、今や数万の人口を包容し、全く都市の形態に化し、商業発展の中核地域となり将また住宅地域として現在及び将来益々発展の気運を醸成しつつあり、由来我が国民性の蛇を嫌忌する感情よりするもまたこの都市文化の中心たる地名に蛇窪なる名称は、あたかも山村辺輙の地名の如く到底不適当たるを免れず。
ごとし上蛇の一文字を排せず、或は上町下町と称するも将また上窪町、下窪町というも可なり、今やこの地方も大東京に編入せられんとし将来一層の都市文化発展の期待すべき時機に際会したるを以て、この機を逸せず最も適当なる字名の改称すべきものなり。
右理由に依り、町当局は速に本案を会議に附し、委員を設け精査研究を逐げ、改称の実現を計らるべきものとす。
カタカナをひらがなに、一部漢字もひらがなにすれば、語体を変えずとも読みやすくなるだろう。要するに建議書では、地名は歴史や由緒あるものであり、簡単に変えるべきものではないが、蛇窪のような都市に相応しくない地名、また蛇を嫌う国民性から地名に不適当であり、せっかく東京市に編入されるのだから、改名する機会を逃してはならない。との主張に読める。
この建議案は、昭和7年(1932年)7月10日の町議会に附議し、委員を決定。その後の調査研究の結果、上蛇窪を上神明町に下蛇窪を下神明町と改称することに決定。9月7日の町議会で決定し、10月1日より実施としたのである。
これにより、蛇窪は神明に置き換えられることになったわけだが、当初の建議書においては「神明」という名は見えていない。そこにあるのは、「上町・下町」「上窪町・下窪町」というものであって、単に「蛇」というキィワードを外したに過ぎない。これが、神明となったのは、神明社より由来するとなるが、この名を採用した理由は人為的なものである。見栄えのいい、聞こえのいい、通りのいい、という理由でしかないのだ。
東京府荏原郡荏原町大字上蛇窪は、昭和7年(1932年)10月1日より、東京府東京市荏原区上神明町となった。しかし、せっかく命名した町名もわずか10年足らずで消滅してしまう。荏原区は、人口稠密地帯であり、単独町で一つの区を成立させたが、町名は多くの他区とは異なり、大字区域をそのまま町区域としたため、地番だけで家屋を特定することが困難だった。そのため、東京市からの強力な指導を受け、町名整理に踏み切った。同時に自治会(町会)区域も見直され、原則、「一町=一町会」となった。この新町名は、現在にも残る豊町、二葉町(現 二葉)だが、「蛇窪」や「神明」のような由来を持たない名前でしかなかった。幸いにして、東急大井町線に「下神明」駅が残っているので、東京市荏原区発足時の町名は保存されているが(「下神明」駅の前は「戸越」駅だった。現在の「戸越公園」駅の前が「蛇窪」駅)、これがなければきわめて短期間で消滅したとなるだろう。
以上、蛇窪という地名がどういう経緯で消滅に至り、それを受けた神明も10年足らずで消滅したことを振り返ってみた。所詮は、どれだけの人たちが土地の記憶を共有できるかで、地名の存続は決まってくる。蛇窪の場合は、その名もさることながら、それ以上に都市化以前の状況と都市化が進んだ後での住民の気質が違ったこと。さらには戦時体制に向かって町名改正がなされたが、結果的に合理的だったことや長年使用される間に愛着が出てきたということになるだろう。「この土地は誰のもの?」みたいに、時代をどこまで遡れるのか、によって決まる話(中東では2000年以上もやりあっている)。地名の保存とは、とどのつまりそういうことだと思うのだ。
現在の横須賀線で昔の品鶴線の上りの大崎方面と品川方面の分岐点に蛇窪信号所があり、展望車の方向転換に利用されており、特急ツバメ号の列車の入れ替えを大井町線の電車の窓から目撃したことを記憶しております。現在は西大井駅となっておりますが、現在本線では滅多に見られない未だに平面交差です。保安上問題があると思いますが用地の取得は至難の業でしょう。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/21 18:30
木造院電車両マニア様、コメントありがとうございます。
掲載した昭和4年の1万分の1地図でも右上に確認できるVの字路線の場所ですね。下神明駅の上り方向ホームから私も見たことがありますが、埼京線や横須賀線等、ますます利用者の増える路線でしょうから「決定打」がほしいところ。用地買収よりも小田急線等のように重層構造しかないのかな、と。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/22 07:05
平面交差は英国や上野のような都市の中心部に突き出ている終着駅方式の多いヨーロッパでは動力車の付け替えの関係で多数見られますが,日本の様に神経質に脱線転轍機などを設けておりません.過密ダイヤでないので安全性が保たれているのかもしれませんね。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2009/12/22 11:28
思い起こせば、といっても現物を見ているわけではありませんが、路面電車は平面交差が当たり前のようにあるので、やはりスピードまたは密度がそれほどでなければいいのかな、と。終着駅方式の駅は、数か月前にパリに行ったときにたくさん見たので、おっしゃるお話しはよくわかります。ありがとうございました。
投稿情報: XWIN II | 2009/12/24 07:26
四年前のブログへのコメントで申し訳ありません。祖父は鉄道省官吏で、父は下蛇窪鉄道官舎において誕生しました。この鉄道官舎がどのあたりにあったのか知りませんが、おそらくその痕跡などはまったく残っていないのでしょう。
投稿情報: 平塚村民の子 | 2013/10/30 20:08
平塚村民の子様
小生も大正15年に平塚村大字中延に生まれたものですが、都立中央図書館で複写で入手した「東京府下平塚町全図(大正15年)」によりますと、大字下蛇窪字鎧が台に大井工場官舎とあります。東京府荏原郡大井町平塚村の地図には(鉃道院工場敷地」と隣接する品川町字権現台の記載がありますが、お爺様は昔の大井工機部にお務めだったのでしょうか。この地図によると敷地は現在は品川区役所に成っている工場の敷地の南西端に接しておりますが、中央を東急大井町線が横断する様に予定線が描かれていますので、民間に払い下げと成ったのでしょう。現在の双葉町1丁目で、大井町駅から大井町線に沿って下神明駅に向かって歩いて品川区役所前信号機の所で三間通り商店街と分岐する辺りではないかと思います。地図の南北が反対ですので位置を掴むのに苦労しました。ご参考になれば幸いです。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/10/31 09:29
平塚村民の子様
下蛇窪鉄道官舎に関してこのブログで以前に大井町線の大井町駅に接続する用地買収に関して、当時の鉃道院の工場敷地の一部を譲ってもらった経緯が記載されてたことを思い出しましたが、何時であったか思い出せません。掲題の用地も一緒に東急に譲ったのかも知れません。小生の記憶に残っている大型の鉃道官舎は大井町のゼームス坂の通りと東海道線の間の浅間台にありました。参考迄に追記します。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/11/01 10:12
木造院電車両マニア様
情報をいただきまして有難うございました。祖父の経歴の一部に東鉄大井工場という記述がありました。また、鉄道官舎の住所として、品川区大井山中町4191と書いてある資料がありました。
投稿情報: 平塚村民の子 | 2013/11/01 18:10
平塚村民の子様
昔の鉄道省の方は事務官と技官とありましたが、家内の姉の亭主が国鉄に勤めていて小倉の官舎に住んでいましたが、中に共済組合の売店があり、福利厚生がかなり充実していたような印象を受けました。大井山中町4191は、手持ちの昭和8年の地図では上杉氏別邸となっており、現在は大井3丁目で集合住宅が何軒か建っている団地のようになっています。昭和30年代に大井庚塚町に住んでおりましたが、ここに官舎があったかどうか記憶が定かでありません。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2013/11/03 11:12
蛇窪~へびくぼぉ~・・・って駅に到着したら言ってたのかしらね。
父は祖母が「蛇窪うんぬん・・・」と言っていたので聞いたことはあるけど・・という程度にしか知らなかったみたい。
うちは曾祖母の代から荏原二丁目ですが、知らなかったなぁ。
私は巳年うまれなのでちょっとかなり?親近感がわきました。
お勉強になりました。ありがとうございます。
投稿情報: へびどし | 2014/02/25 21:33
へびどし様
小生は大将15年に荏原軍平塚村大字中延に生まれましたが、蛇窪の駅名は記憶に残っております。三井農園が戸越公園になってから駅名が変わりましたが、蛇窪と言う名前は現在の西大井駅の付近にあった品鶴線の大崎と品川和への分岐点にあった「蛇窪信号所」として地名が消えてからも長い間残っていました。荏原2丁目は昭和20年4月24日の空襲で大きな被害を受けた場所ですね。小生の実家も罹災しました。
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2014/02/27 08:25
大変興味深く読みました。実はわたくしは、昭和7年に下蛇窪に生まれたのですが、2年後には千葉に移転して、一度も生地に行っていません。一度は訪れたいと思っています。
投稿情報: toshi | 2016/06/11 10:22
6年半ほど前の記事へのコメント、ありがとうございます。
さて、改めて思うことは、この手の記事は基本まったく古くならないと言うことを思い至りました。
最近は仕事多忙により、ほとんどまとまった記事を書くことができない状況なのですが、チャンスがあれば再び書いてみたいものです。
投稿情報: XWIN II | 2016/06/17 06:30
2009年のコメントにもあるように、JRの施設名としては現役ですね。
鉄道ファンにとってはむしろ、なじみのある地名です。
逆に、鉄道に縁の地名だと、千葉県の習志野や津田沼とか葛飾区の高砂は
近代になってからの新しい地名です。
投稿情報: 下町鉄親父 | 2016/12/16 23:03
枯れたBlogにコメントありがとうございます。
駅名に採用された由来なども、知れば知るほど奥が深いと実感します。
投稿情報: XWIN II | 2016/12/25 12:38
こんにちは。とても興味深い内容でした。
ただし残念なことに建議書の読み下し文にいくつか間違いがありました。
6行目。然共世運ノ進展…「然共」はシカレドモと読みます。
12行目。将亦住宅地域トシテ…「将亦」はハタマタと読みます。
16行目。如上蛇ノ一文字ヲ排セズ…この「如」はちょっと難しい。ここではモシと読みます。
仮定の意味になり、「モシ上蛇ノ一文字ヲ排セズ」と読むのです。
また、その先の「将亦」はすでに出てきたように、ハタマタと読みます。
昭和に書かれた文書といっても、この時代の公文書は文語文で書かれていましたから慣れないとうっかりしてしまうものです。
ぜひ参考になさってください。
投稿情報: 漢学者 | 2018/04/07 20:48
枯れたBlogにコメントいただき、どうもありがとうございます。
まだまだ戦前の文書を読み下すには修行が足りません。
ご指摘いただいたことも含め、精進します。
投稿情報: XWIN II | 2018/04/08 18:05
目黒の蛇崩はじゃくずれですが 蛇窪はじゃくぼ とは呼ばないのでしょうか?
お教えください
投稿情報: じゅん | 2019/04/16 13:28
蛇窪の由来は地図に表されています。
令和19号台風被害報道の中で識者が「住宅の立地の検討にはハザードマップと旧地名を重要視しなければならない」と言われていたので、早速品川区浸水ハザードマップをプリントアウトし浸水予想の色分けを見てその形に驚きました。
現目黒川脇の浸水危険度が高いのは当然でしょうが、川の無い所に広町から西南方向二葉を通って中延から北西方向に畝畝と続く浸水危険度の色分けに蛇を見て取れると感じました。やはり旧地名は現代にも生きているんですね。
投稿情報: John | 2019/10/18 12:27
蛇窪もそうですが僅かながらに昔の地名を残している場合が品川区は多いですよね。
源氏前たったり森前だったり、家は庚塚の町内会です。
投稿情報: tomo | 2020/05/15 06:20
「源氏前」に反応させていただきました。友人に源氏前小卒業生がいるので。地名としては残っていなくても、施設名として残っている場合もありますね。
数年前、私の出身小の集まりで、「地名もないのに、ウチの学校は何でこの名前なのか?」という疑問が出て、私は「それは昔、あの辺りが『清水頭』という地名だったからよ。」と応答。(位置的にはちょっとずれますが、まあ大体合っていると思うのですが)
投稿情報: りっこ | 2020/05/19 11:55
神明社が伊勢神宮の系統と知って、下神明を思い出し、地図に上神明も在る。では神明社はどこに? ところが地図に無い! あちこち調べると、天祖神社に併祀らしい。それも蛇窪神社のこと。一昨年の夏、前を通り掛った時、地元の若衆が祭の稽古をしていた。あそこか、ということで一件解明。それにしても参考資料の「最近荏原町政史 全」を著したのが、鏡省三さん。今から60年以上前、品川区議会議員を何期もつとめた方とは。自宅の近所の方だったので、選挙の度にポスターを目にしていました。
投稿情報: 来光堂 | 2021/01/13 22:55
昭和6〜7年の頃、私は3歳位だったと記憶してますが、蛇窪に住んでいました。家の周囲は一面の畑でした。台風で屋根が飛ばされた記憶があります。
家の斜向かいに朝鮮人部落が有り、幼かった私は毎日ように部落の近くで一人で遊んでました。白い粗末な服を着た朝鮮のおばさんが金物の盥で鳥の皮を洗ってるのを見て何に使うのかと思いました。
ある日、日本の警察がこの部落から大勢の朝鮮人を数珠つなぎにして連行していくのを見ました。朝鮮人たちは白い服を着て頭からすっぽりの藁で編んだ笠を被せられ手は縄で縛られていました。幼心で朝鮮人が可愛そうに思いました。
投稿情報: まな | 2022/11/19 13:32
祖父の出生地を調べているうちに、ここにたどり着きました。 彼は朝鮮人で、出生届には昭和7年に大字上蛇窪1541番地で生まれたと書かれています。私自身、つい1週間前に東京に行ったのですが、地名が変わっていて現在どこを指しているのか全く分かりませんでした。今日、偶然このブログを発見し、とても嬉しく思います。 後で東京にまた行く機会があれば、ぜひ行ってみようと思います。 ありがとうございました。
投稿情報: Huhwemaxim | 2023/07/14 19:12
枯れたBlogにコメントいただきありがとうございます。
東京府荏原郡平塚町大字上蛇窪1541番地というと、明治44年(1911年)当時の地図を確認する限りですが、上蛇窪に地番は1〜500番台までしかなく、その後の地番整理において400番台までに削減されていることを踏まえると、戸籍の記載誤り(結構よくある。届出者が誤っていることが大半)の可能性も指摘できます。
投稿情報: XWIN II | 2023/07/17 06:52
「まな」さんて人、本当なら今95才のおばあさんなんだけど本当なんでしょうか。
文章の端々から、疑わしいとおもってしまうんですが・・
蛇窪神社はリニューアルしてずいぶんと綺麗で楽しい神社になっていましたね
投稿情報: とるとる | 2023/12/07 10:18
西大井に数少ないけど何戸か明らかに古臭い趣きありすぎる家があるよね、表側理容店やお店、裏は家。
裏道入ると色々察するよね、歴史は上の通りかな?
投稿情報: ぱぱ | 2024/01/08 22:26
大正12年前後に蛇窪に住まれた在日朝鮮人の方が生まれた朝鮮人集落(朝鮮人部落)の現在地域を探してます
何か情報をお持ちの方がいたら教えてもらえますか?
投稿情報: おこんさん | 2024/08/01 09:50