旗ヶ岡駅の歴史を探っていく中、国立公文書館になかなかよさそうなデータベースがあるとわかり、早速検索を行ってみた。本当なら、当該文書を読解することで考察すべきだが、あいにく勤め人ではなかなか時間を取ることができないので、老後の楽しみの一つにとっておこうと思いつつ、タイトル(表題)と日付だけでもなかなか面白い考察ができそうだとわかり、池上電気鉄道がらみの情報を引っ張ってみた。以下、年代順に抜粋をご紹介しよう。
第一期 会社創立まで
- 大正3年(1914年)4月9日 大崎町、入新井村間軽便鉄道敷設免許の件
- 大正4年(1915年)4月23日 工事施行認可申請期限延期の件
- 大正5年(1916年)2月18日 工事施行認可申請期限延期の件
- 大正5年(1916年)10月16日 工事施行認可申請延期及発起人追加の件
大正元年(1912年)12月28日、軽便鉄道法に基づき、池上電気鉄道発起人たちが特許申請を行い、それが免許を得たのは1年と4か月程経た大正3年(1914年)4月8日だった。これだけ期間が空くということから察しがつくが、池上電気鉄道発起人の信用性が相当に低かったのか、あるいは他の問題があったのか(計画路線の線形とか?)。何にしても、特許を得た翌日に「大崎町、入新井村間軽便鉄道敷設免許の件」という文書が池上電気鉄道発起人から提出・収受されたことがわかる。しかし、免許状には大正4年(1915年)2月7日までに工事施行認可申請を提出するようありながら、それがおぼつかない様子が度重なる申請期限延期文書からわかる。発起人たちは、池上電気鉄道を法人として成立させようと努力をしていたとは思うが、結果として池上電気鉄道創立総会は大正6年(1917年)6月24日まで待たねばならなかった。申請から5年半。産みの苦しみを相当に味わったことがわかるが、まだまだ序の口でしかなかった。
第二期 営業開始まで
- 大正7年(1918年)3月25日 工事施行認可の件
- 大正7年(1918年)9月25日 工事施行認可の件工事着手届
- 大正8年(1919年)1月6日 線路及工事方法変更並支線敷設免許及工事施行並書類返付の件
- 大正8年(1919年)8月4日 蒲田支線工事着手の件回答
- 大正8年(1919年)9月12日 支線敷設願却下の件
- 大正9年(1920年)5月19日 目黒、大森間工事竣功延期の件許可
- 大正9年(1920年)6月23日 蒲田支線工事竣功延期の件許可
- 大正10年(1921年)7月8日 蒲田支線工事竣功期限延期の件許可
- 大正10年(1921年)8月3日 工事方法変更認可及戸越停車場構内急勾配線存置許可の件許可
- 大正10年(1921年)11月28日 目黒、大森間工事竣功延期の件許可
- 大正11年(1922年)1月20日 池上、蒲田間工事竣功延期の件許可
- 大正11年(1922年)7月20日 蒲田支線工事竣功期限延期の件許可
- 大正11年(1922年)8月22日 池上、蒲田間線路変更の件認可
- 大正11年(1922年)9月23日 目黒、大森間及池上、蒲田間工事方法一部変更の件認可
- 大正11年(1922年)9月27日 池上、蒲田間工事竣功期限延期の件許可
- 大正11年(1922年)9月27日 池上、蒲田間単線仮設工事施行の件認可
- 大正11年(1922年)10月5日 池上、蒲田停車場前間旅客運輸開始の件認可
- 大正11年(1922年)11月2日 客車仮使用の件認可
- 大正11年(1922年)11月15日 蒲田停車場構内特殊曲線設置の件認可
ここには出てこないが、池上電気鉄道株式会社が誕生してすぐの大正6年(1917年)6月28日に電気工事施行認可申請、同年同月30日に鉄道工事施行認可申請を提出。これも理由は不明だが、時間が相当にかかり、翌年の3~4月には工事施行認可がされるのだが、ここでまた難問が立ち上がる。それは起点としていた大森駅西口(山王口)付近は計画当初に比べ家屋が稠密してしまい、第一次世界大戦のインフレも受けて地価が暴騰しており、計画通りの土地買収にまったくめどが立たなくなってしまっていた(そもそも計画当初は西口など無かった)。そこで、同年9月3日に大森駅から蒲田駅へ接続(起点)駅を変更する「線路及工事方法一部変更認可申請書」を内閣総理大臣宛に提出。これも紆余曲折があり、池上~大森間は本線としてそのまま存置し、池上~蒲田間を支線とする扱いとして同年12月28日に免許を得た。これを受けて、翌年1月6日「線路及工事方法変更並支線敷設免許及工事施行並書類返付の件」が出てくる流れとなろう。
その後も延期願が続き、蒲田支線の免許を得てから約2年5か月後の大正10年(1921年)5月18日に、ようやく形だけの起工式を行うことができた。この間も、池上~目黒駅間の路線変更(池上付近から呑川沿いに進むルートから現在の半円を描くルートに変更)もあって、前途多難、起工式を行っても「工事竣功延期」が出されるなどして、いつ開業できるかという状況に変わりはなかった。これが大きく変わるのは、大正11年(1922年)4月20日の臨時株主総会で取締役そして会社代表者となった高柳淳之助氏の登場からである。
高柳氏が就任して約半年後の大正11年(1922年)10月6日に、池上~蒲田間の開業がなるわけだが、ここに至るまでの半年、もっといえば7月以降に8件もの文書があるのに驚かされる。今まで何をやっていたんだろう的な感じで、開業に邁進した結果だが、だったらなぜ今までそれができなかったのか。端的に言えば、工事費用等を当局の指導よりもレベルが低い(つまり低コスト)状態でやったもの勝ちとしたからである。まず、注目は開業1か月半ほど前の「池上、蒲田間線路変更の件認可」、さらには開業2週間ほど前の「目黒、大森間及池上、蒲田間工事方法一部変更の件認可」。いくら2kmほどの池上~蒲田間とはいえ、こんなぎりぎりで線路変更や工事変更を行うとはどういうことなのか。さらにさらに開業まで10日を切った時点で「池上、蒲田間工事竣功期限延期の件許可」と「池上、蒲田間単線仮設工事施行の件認可」が出されている。ほとんど事後承認的に、基準を下回る(だから仮設工事)ものでありながら結果オーライで通してしまったと考えられる。さすがは貴族院議員の面目躍如なのかもしれないが、もっとすごいのは開業後の日付となっている「客車仮使用の件認可」と「蒲田停車場構内特殊曲線設置の件認可」で、前者は自社で用意するはずの電車を期日までに完成させることができず、高柳氏の関連会社である駿遠電気鉄道から中古の電車2両を譲り受け、開業に間に合わせたのだが、無論、当局の許可を取っているはずがなかった。しかし、無許可で営業させるわけにもいかず、完全に事後承認となったものである。後者の方も同様で、規定以上の曲線半径がなかったことが発覚したが、これも事後承認。だが、仮設備という扱いを受け、早急に本設備とするよう指導を受けるようになるのであった。
以下、次回に続きます。
わお!「高柳淳之介氏」登場ですか。
彼は、「怪企業家」でもありましたが、でも彼なくば、「池上電気鉄道」は鉄道省から免許を失効され、今日その姿はなかったのではないでしょうか。駿遠鉄道からボギー車両を2両譲渡してもらい、その電車の横腹に元の鉄道の定紋をつけたままで、池上電気鉄道車両として走らすなんて、笑っちゃうほど強引で辣腕ですよね。
それでも、大正11年10月6日、池上~蒲田間1.8km「池上本門寺お会式当日」開業したんだから、大したものです。
事後承諾、まさにそうなんですねぇ~~こうして時系列的に書いていただくと、本当によくできたもんだなと改めて感心いたしました。
投稿情報: りっこ | 2009/11/25 22:05
あ。すみません。私も間違えちゃったんですけど。
「高柳淳之助」氏だと思います。 m(_ _)m
投稿情報: りっこ | 2009/11/25 22:09
りっこ様、コメントありがとうございます。
訂正ご指摘感謝です。早速修正いたしました。
仰せのとおり、世間の風評は芳しいものではなかったようですが、それはそれ。池上電鉄の開業は彼なくしてはあり得なかったでしょうし。悪しき利殖に手を染めていたとしても、原動力という点では悪(誘惑)なくして進まないのが世の習い。ただ、それが露骨に表れるかどうかの違いだと思いますね。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/26 07:39