では、前回の続きです。
第三期 雪ヶ谷延伸開業まで
- 大正12年(1923年)2月9日 蒲田、池上間及大森、目黒間工程表提出の件
- 大正12年(1923年)2月22日 客車仮使用期限延期の件
- 大正12年(1923年)3月30日 蒲田支線複線工事竣功期限延期願返付の件
- 大正12年(1923年)3月30日 目黒、大森間工事竣功期限延期願返付の件
- 大正12年(1923年)3月31日 客車設計変更の件
- 大正12年(1923年)4月4日 客車竣功届
- 大正12年(1923年)4月23日 目黒、大森間工事竣功期限延期の件
- 大正12年(1923年)4月23日 池上、蒲田間工事竣功期限延期の件
- 大正12年(1923年)4月23日 池上、蒲田間単線仮設物使用期限延期の件
- 大正12年(1923年)4月27日 大森、目黒間及池上、蒲田間工事方法変更の件
- 大正12年(1923年)5月3日 池上、雪ヶ谷間旅客運輸営業開始の件
- 大正12年(1923年)5月3日 池上、雪ヶ谷間単線仮設工事施行の件
- 大正12年(1923年)5月4日 延長線敷設免許申請書返付の件
ここに出てくるのはわずかに3か月程の期間でしかないが、どたばた感が拭えない。まず、見えない(出てこない)部分として、池上電気鉄道は池上~蒲田間の開業直前の大正11年(1922年)9月22日、「池上電気鉄道線路変更申請書」が鉄道大臣宛に提出され、起点(終点)を目黒から五反田への変更を願い出ている。このタイミングは、目黒蒲田電鉄創立の20日後であるので、池上電気鉄道の危機感を感じ取るには十分だろう。この起点変更の許可は大正14年(1925年)4月14日まで時間がかかっており、この遅延はそのまま池上電気鉄道線の完成をそれだけ遅らせることに直結する。つまり、第二期線として池上~雪ヶ谷間工事を行った後の第三期線工事となる雪ヶ谷~目黒は凍結せざるを得ないわけである(一概に言えない部分はあるが、これについては同年代の項で改めてふれる)。
こういった背景を確認しながら、第二期線となる池上~雪ヶ谷間が完成するまでの期間を眺めてみると、前年の積み残し課題が引き続き存在していることが確認できる。この間、解決した課題は土壇場で用意できなかった電車(客車)について。一度は「客車仮使用期限延期の件」が出されてはいるが、「客車設計変更の件」を経て「客車竣功届」が出されている。実に開業して半年を経てのことだった。一方、本線の扱いである大森~池上間は相変わらず延期を続けており、本音はやりたくないが、当局の指導から仕方なく続けているという様子も伺える。振り返れば、当初は大森~目黒間だったのに、紆余曲折の結果が蒲田~五反田間になってしまうという無計画さは、責められても仕方のないところだろう。
さて、肝心の池上~雪ヶ谷間については、蒲田~池上間と同様に工事の難所となるような所はほとんどないため、順調に進捗した様子が伺える。というのも、第二期線については池上電気鉄道十八番の延期願もないからである。しかし、工事のコスト削減は池上~雪ヶ谷間も徹底されていたようで、第二期線開業日の前日にあたる大正12年(1923年)5月3日に「池上、雪ヶ谷間旅客運輸営業開始の件」と並んで「池上、雪ヶ谷間単線仮設工事施行の件」が出されていることに注目である。要は、第二期線の池上~雪ヶ谷間も単線かつ仮設工事レベルで施工されたことを裏付けており、いかに低コスト体質で鉄道が運営されていたかがわかる。
第四期 高柳社長辞任まで
- 大正12年(1923年)7月19日 池上、蒲田間及大森、目黒間工程表提出の件
- 大正13年(1923年)4月1日 池上、雪ヶ谷間単線使用期限延期の件
- 大正13年(1924年)6月7日 蒲田支線複線工事竣功期限延期申請書返付の件
- 大正13年(1924年)6月21日 蒲田支線工事竣功期限延期の件
- 大正13年(1924年)7月3日 目黒、大森間工事竣功期限延期の件
- 大正14年(1925年)3月16日 池上、雪ヶ谷間仮設物(単線)使用期限延期の件
- 大正14年(1925年)3月16日 池上、蒲田間仮設物(単線)使用期限延期の件
- 大正14年(1925年)4月14日 大森、目黒間線路及工事方法変更の件
- 大正14年(1925年)8月27日 池上、蒲田間仮設物使用期限延期の件
- 大正14年(1925年)8月27日 池上、蒲田間工事竣功期限延期の件
- 大正14年(1925年)8月27日 大森、五反田間工事竣功期限延期の件
- 大正14年(1925年)8月27日 池上、雪ヶ谷間仮設物使用期限延期の件
- 大正14年(1925年)11月10日 蓮沼停留場を停車場に変更の件
池上電気鉄道開通に功績があった高柳氏だが、一方で鉄道業は低コスト体質で積極営業を行わないこともあり、第二期線開業以降はまったく頓挫してしまう。ご覧のように計画の延期や仮施設を本施設にする指導に対しての延期など、延期の山。先にもふれたように第三期線の終点が目黒駅から五反田駅への変更許可がなかなか出なかったというのもあるが、よく考えてみれば、雪ヶ谷で止まっている理由には当たらない。一気に山手線に接続させた方がいいという理屈はあるが、暫定開業を繰り返している現状を見れば、目黒から五反田への変更を待つにしても洗足池あたりまでは路線延長は可能であるだろう。しかし、それを行えない理由は工事費が膨大にかかることが予想されたからである。
雪ヶ谷から先に、まず取り組まねばならないのは大規模な橋梁建設である。それは呑川を越えることであり、続いて現在は掘り割りとなっていることからわかるように現石川台駅付近の台地を乗り越えるか、掘り割りを作らなければならない。この二つの工事はこれまで池上電気鉄道が経験したこともないのはもちろん、低コスト体質にはなじまないものだった。要は、意図的な遅延が伺えるのである。その高柳氏も大正14年(1925年)末に辞任し、いよいよ池上電気鉄道初めて積極経営に転ずることとなるが、それはまた次回に続くとします。
すみません!こちらの記事とは直接関係がないのですけれど、実は、ネットを見ていたら、アレレレ……という記事に偶然ぶつかってしまったので、お知らせさせてくださいね。
品川区のホームページなのです。
http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000006700/hpg000006627.htm
ここに、写真が掲載されています。これが、「旗ヶ岡駅」と、昭和大学写真集では載っている、アノ写真と全く同一のもので、しかしここには「戸越銀座・昭和初期」と記されているんですぅ(>_<)
どっちの駅が本当なのでしょうか。何だかビックリしてしまいました。
庶務課の文化財係に聞けば、わかるのでしょうか……電話番号も同ページに記されております。
ちなみに、こっちの写真の方がクリアでして、しかも遠くまで写っているんですよ。
まさか、昭和大学のあゆみ、写真集が、ここだけ「戸越銀座駅」を載せたとは、思えないのですが。
投稿情報: りっこ | 2009/11/26 21:34
りっこ様、コメントありがとうございます。
正直、やはりデジャヴでなかったか!といったところです。あの写真を見たとき、何かどこかで見覚えがあるなぁと思ってはいたのですが、頂戴したコメントで思い出しました。
確認してみますが、この写真は現在の品川区の前身にあたる荏原郡大崎町小学校長会が出した「大崎町郷土教育資料」に掲載されている写真かと思います。この書籍には貴重な写真が数多く掲載されており、その中の一つがこれではないかと。荏原郡大崎町の写真であるとするなら、いうまでもなく旗ヶ岡駅ではありません(当該地は荏原郡平塚村→平塚町→荏原町)。ここにもあるように戸越銀座駅でしょう。確かに戸越銀座特有の構造(五反田方向に向かって右曲がりになっている)の特徴を持っていますので。
ということは、単に昭和大学の写真集が誤って掲載したという説が濃厚、ってところでしょうね。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/27 07:10
XWINll様、ありがとうございます。
やっぱりそうでしたかぁ~~がっかりですぅ。。ちょっと涙。
私は、この写真は見るの、初めてだったので。
ちなみに、品川区文化財係に電話しちゃいましたσ(^◇^;)
そうしたら、品川歴史館所蔵の「新東京歴史大鑑」(すみません、漢字の確認しなかったのですが、多分この字かなと)に掲載があるとのことで、後日、このホームページに、その出典を改めて明記していただけるとのことでした。
投稿情報: りっこ | 2009/11/27 09:08
りっこ様、コメントありがとうございます。
「新東京歴史大鑑」らしいという情報をいただき、どうもありがとうございます。私も確認してみるつもりです。
なお、「大崎町郷土教育資料」を確認してみたところ、これには当該写真は掲載されていませんでした。記憶違いであったようです(苦笑)。それにしても、荏原町(荏原区)の戦前の写真は少ないですね。「香蘭女学校100年のあゆみ」まで読み込んでみましたが、情報はなし。意外なところにありそうかなとは思いつつ、ゆっくり探してみるとします。
投稿情報: XWIN II | 2009/11/29 09:19