その3の最後には、このような結論を出していた。
私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停留場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。
しかし、どうやら計画だけではなく、短期間のみ実在したと思われる証拠が残されていた。
現在(2009年10月31日)、Googleマップのストリートビューで旧桐ヶ谷駅ホーム北側付近を確認してみるとわかるように、上写真にあるように法面の工事が行われていることがわかる。つまり、旧桐ヶ谷駅時代の遺構がこの工事で逸滅してしまった可能性があったのだ。そこで、今さらながら桐ヶ谷駅付近の写真が掲載されている文献をもう一度じっくり確認してみたところ、しっかりと遺構が残されていたことを確認できた。
「回想の東京急行I」に掲載されているこの写真。絵解きにも書かれているように、左側擁壁に削られた跡があり、これがかつての桐ヶ谷駅の北側出口だとしているが、計画図面と見比べてみてもおそらく正しいものと思われる。このことは、現在(法面工事施工後)だけを見ていてはまったく気付くことは不可能である。
とは言いつつも、実は「回想の東京急行I」を読んだ時点で、この記載は既に目にしていたが、本当にこの削られた跡が北側出口へのアプローチとしての確証が得られなかったので、「計画図である「桐ヶ谷停留場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかった」と判断した。ただ、改めてその1からその3まで通して読んでみて、このこと(左側擁壁に削られた跡が過去に存在したこと)をふれておいた方がいいだろう、と考え、今回このような形で載せてみた次第である。
それにしても、左側擁壁の削られた跡を見ると、本当にここが北側出口へのアプローチだったのかという疑問が出てくる。当時の池上電鉄のホームは、ホーム両側(あるいは片側)に緩やかな下り傾斜(あるいは階段)がかかっており、地表面とフラットになるような構造となっていた。現在の東急池上線における御嶽山駅、久が原駅、池上駅、蓮沼駅のような構造である。なので、桐ヶ谷駅においても島式ホームであることを考慮に入れれば、北側出口に向かって徐々に下り傾斜(階段)によって、地表面とほぼ同じ高さにし、上り線路と下り線路の間から接道するという構造を採りそうなものである。
だが、左側擁壁に北側出口へのアプローチがあったとすれば、ホームから何らかの構造物を経由していかなければならない。しかもそこには線路が敷かれている上をまたぐ形となるので、かなり不自然な構造となる。計画図面を見れば、ホームとアプローチ道路がフラットになっており、線路をわたるように見えるが、左側擁壁の削られた跡を見る限り、地表面と同じ高さにはなく、どちらかというとホームの高さと同じように見える。さすがに線路に対して、ホームと同等の高さのアプローチ道路までの構造物を設置することは考えられない(線路をふさいでしまう)だろう。そうなると、一度ホームから地表面(線路面)と同じ高さまで下げ、線路をわたり、その上でアプローチ道路の高さまで上り傾斜(階段)を設けない限り、下り線を電車が通れなくなってしまうことになる。よって、この構造を実現するには、ホームから階段(下り斜面)を降り、線路を渡ってから、もう一度アプローチ道路の高さまで階段(上り斜面)を上るという面倒なものとなってしまう。
あくまで可能性の問題だが、これを実現するには、桐ヶ谷駅付近が複線でなく単線であれば可能となる。上に載せた「開業当初の桐ヶ谷駅」予想図は、複線を想定して書いたものだが、ホームからアプローチ道路間を通る下り線が存在しなければ、ホームの高さから勾配(階段)をほとんど設けることなく、アプローチ道路に接続することが可能となる。イメージ的には、離れた二つの山の山頂同士を橋でつなぐようなものである。こう考えれば、左側擁壁の削られた面が地表面でなく中途半端な高さ(ホームとほぼ同レベル)という説明も可能となる。
以上の推論も含め、桐ヶ谷駅の構造をとらえ直してみよう。
桐ヶ谷駅開業当初は、新設した雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅も含め、既存の蒲田駅~雪ヶ谷駅も単線から複線で開業した。しかし、桐ヶ谷駅は大崎広小路駅までの工事に時間がかかったため、暫定的に終点となった。このため、当初設計を活かしつつ、駅ホームからアプローチ道路までは下り線路をまたぐ構造物によって実現した。そして約1か月後、大崎広小路駅まで延伸開業し、下り線をまたぐ運用に問題が出てきた(ホームとアプローチ道路がフラットに接続されていれば構造物が邪魔で、上り下りを要するのでは利用者に難多い)ことから、新たにホーム南側に階段を取り付け、駅舎を設置した。こうすることで、線路をわたることなく地域の主要道にも直接接続できるようになり桐ヶ谷駅は、戦災を受けて破壊されるまでこの構造が続いた。と結論づけたい。
というわけで、桐ヶ谷駅の構造について推論も交え、考察してみた。桐ヶ谷駅は、池上電鉄にとっては大変珍しい島式ホーム(高架駅を除く。のちに雪ヶ谷駅が島式ホームとなるが、これは国分寺(奥沢)線の分岐駅となったため)であり、いくつかの文献によれば、ホームからの出口が2か所あるとし、これまた池上電鉄にとっては唯一の構造を持っているとされる。しかも、既に駅は廃止されており、その痕跡を見いだすことも難しいばかりか、開業当初はもちろん、戦災で焼け落ちる前までの駅の写真すら残っていない(少なくとも公開されたものはない)。そういう興味深い存在であるので、今後さらに新たな発見(私にとっての)があれば、その5としてお贈りすることができるだろう。
追記:すっかり忘れていたとしかいいようがないが、実はその4を以前に書いていたことに今さらながら気付いたため、タイトルをその5とするのもどうかと思い、4.5とすることにした。
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