我が国が大きく変わったのは、直前ではポツダム宣言受託後、その前は明治維新となるだろう。明治維新は、急激な変化であったがそれなりの期間を経て行われたが、太平洋戦争前後はそんなものではなかった。そんなわけで、この違いを朝日新聞社が当時発行した「朝日年鑑」を見ながら「変化」を感じ取ってみよう。私はこの転換期を知らないが、こうまで違うか!と驚かずにはいられない。
まず最初に、昭和20年版(1944年(昭和19年)12月25日発行)、昭和21年版(1946年(昭和21年)6月20日発行)いずれも巻頭広告を出していた「阪急百貨店」の広告を見てみよう。
まずは、昭和20年版。価格統制も進む中、商売どころでなく「国策に順応し銃後配給報国の使命貫徹に邁進致して居ります」とあるように、配給の拠点のような感じになっている。では、一年後の戦後の広告は、というと、
「昔のように、安くてよいものを、沢山に販売したい」(現代仮名づかい等に改めた。以降の引用も同様)と、戦争は終わったが物資の不足等、国民窮乏の中、やはり商売どころでないことがわかる。「これは一人や二人の力では到底実行できるものではなく、我々業者が打って一丸となって適性なる算段、妥当なる利潤の為に懸命に働かねばならない」というのは、自社だけでなく国民全体へ訴えるかのようである。戦前と戦後、どちらも苦しく厳しいが、戦後の方には未来を感じ取ることができる。
広告でさえこんなに違うのだから、本文はさらにそうかと言えば、実は違いは思ったほど見えてこない。これは編集前記にあたる部分を読めば、はっきりとわかるが、続いてこれを戦前、戦後で比較してみよう。まずは戦前のものから。
これでは読みにくいので、以下に引用として示す。
「昭和二十年 朝日年鑑」(昭和19年12月25日発行。朝日新聞社)P4~5より
時局の重大さは今や「文字以上」である。二十年版朝日年鑑は、この決戦ただ中にある日本を中心に、狂瀾に洗わるる世界一年の縮図として戦時版らしい外装内容のもとに世に出ることとなった。未来を卜する有力な手掛りは、先ず過去を知ることである。二十年版は、明日の世界を知る上にこの役目を課すと共に、必勝生活の伴侶たることを期した。
時局の要請から本年版は更に紙数を減じたが本文三百八十四頁、広告は全然別頁とした。減頁対策としては頁当り収載字数の増加を計り、項目を整理し、一般に利用価値の少ない統計類を省略、各界一年の動向を展望する大観的読物を多くし、その他記事も出来るだけ興趣をもって読み得るよう意を用いた。従来は事典的要素も多分にあったが、本年版は事典たることともに読物としても十分に親しまるべきものたることを念とした。
所謂「年鑑型」よりの飛躍は決して十分とは言い得ないが、こうした過渡的な行き方にこそかえって戦時版らしい匂の漂うことを、読者は好意的に見て戴きたい。
「大東亜戦争」は「日誌」を省いたがその代りに大本営公表を網羅、軍事外の事は「年表」および「略史」に詳しいからそれで「日誌」の用は足りるとおもう。「戦う世界」は地文的記述から蝉脱し、戦う世界の動きを捉えることを主眼とし、通読の便のため「各国首都人口一覧」「近代国家興亡表」を添えた。
戦局が決戦の重要段階に入ると共に、国内も銃後より一転して総てが勇躍戦列につらなった。勝利の日まで、われらの戦う生活は続く。「決戦生活便覧」はその点で相当役立つものと信ずる。
各項目とも出来得る限り最近の事象まで収録するに努め、大本営公表は十月三十一日現在、官庁職名録、日本人名鈔は十一月二十二日現在とし、その他は軽重に応じて六月末、七月末或はそれ以後現在としたものである。世局の変転に伴い、印刷製本事情の最大限まで、締切を延ばし再三再四に亘り補訂、組直しを行った。
一高一低、一瞬の間にも戦機は動き、世界の相貌は変る、本書が世に出る頃には更に瞠目すべき変化があることであろう。ただ不変のものは神州不滅の信念と不撓の戦意である。さらば共に戦列に伍して、総力を傾けて勝利への道を驀直に邁進しようではないか。
必勝生活の伴侶、何ともすごいが、他にも「大本営公表」だけが情報ソースになったり等、文の端々に時代を感じさせる。では、戦後のものを見てみよう。
これも、先と同じく引用して以下に示す。
「昭和二十一年 朝日年鑑」(昭和21年6月20日発行。朝日新聞社)P2~3より
冬を越えて春は来る。
新しき歴史は、今はじまるのでなく、既にはじまりつつある。春の前に冬が横はっていたように、敗残日本の現在は、太平洋戦争に、日華、満州事変に繋がるのである。戦争は悪夢であったが「空白」ではない。今の、そして明日の日本の在り方を理解するためには、辛いからといって、戦時中の頁を飛ばしてしまうことはできない。いまとなって、戦時中の空々しい決戦態勢や施策をとりあげることは、仕事としても決して愉快でないが、編輯者としてはそれを忌避するわけにはいかない。再び愚なる歴史を書かないためには、まざまざと「戦争」の跡を正視し、自己批判しなければならないのだ。
最初本年版は終戦前後の一年間の記録だけにとどめる予定であったが、次々と生起する画期的、歴史的な諸制度の改革、社会情勢の急変に伴い、可及的に最近の事象までを盛り上げることになった。しかし、この頃の五日、十日は平時の五年、十年に相当するほどの凄じさで激動する。ある一つの項目に就いて補訂を試みている間に、他の三つの項目が、もう古くなってしまう。編輯者は微力のかぎりを尽したが、締切期日の他に頁数の制約もあって、或る項目は比較的新しく、或る項目は古く、また記述にも繁簡があって各項目の締切日が跛行的になっていることを認めないわけにはいかない。たとえば現下日本の最高の指針である連合軍総司令部の指令のごとき、最近のものまで採録したかったが、頁数に余裕がないため十一月末で一先ず打切り、後からの分は「政治」欄に略記した。「政治」は総選挙の結果から内閣瓦解、新内閣成立までを特に入れた。改正憲法草案、A級戦犯者の国際裁判、パリ外相会談、教職員追放令等次々と重要なことが起るが、それらについてもあるものは概貌を示すにとどめ、あるものは次年版に譲るより仕方がなかった。主要官庁職名録のごときは、締切後も数度に亘り異動を訂正したが、本書の一般に出る頃には更に顔触れが変っていることであろう。「朝日便覧」「人名録」なども頁数の関係で割愛した。こうした編輯者のもつ苦悩は、同時に今の日本のもつ苦悩でもある。次年版は新たなる構想の下に、機構を整備し、根本的に内容を革新して、信頼され愛読される立派な年鑑をつくりたい。
生活は苦しい。だが登山者にとって峠の数の多いことや、路の険しいことは苦しみでないように、民主国家建設の大道がはっきりと分かっている以上、希望も持てるし苦しみ甲斐もある。日本及び世界一年の縮図である朝日年鑑の次年版は、果たしてどういう内容のものができるか、編輯者の立場からも、また一日本国民としての立場からも、つづく一年に民主日本の異数の成長が望まれるし、そうした輝かしい記録に充ちた立派な年鑑をつくりたいと思う。
戦後を強く感ずる。私が特にそう感ずるのは、言い訳の嵐、と言っていいだろうか。自己批判、とは言いつつも「自己」ではなく、翻弄される自分がおかれている境遇に対してのものであり、間接的にだが、国(国家)が悪いからこうなったのだと言わんばかり。実際、そのとおりだったわけだが、滅私奉公のようなものを蔑み、個人主義に大きくふれてしまうのもこういった洗礼を受ければ仕方のないことだが、こういう経験を持った人たちによって団塊の世代が生み出されて今がある、ということを理解しておくことは重要だろう。偏った個人主義は再生産され、モンスター親のような変種が表れているのかもしれない。傍若無人の60代、という形で現出しているようだが…。
まぁ、それはともかく戦前と戦後。朝日年鑑をして、わずか一年半後にこんな大転換がなされていたことを慮れば、今が激動の時代だなんて思えない。そんなことを感じてみたのであった。
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