先日、当Blogコメント欄において「緑が丘、地名の由来 その1」以降についてツッコミを頂戴した。よって、この件に関して若干報告しておこう。その2とせず1.1に止めているのは、雪が谷大塚駅の歴史と同じく、まだ調査段階でかつ解明できていない疑義が残されているからである。まずは、この疑義から示そう。
緑が丘地区は、隣接する自由が丘地区と共に、江戸期(以前)より「谷畑」地区として一つの村落を形成していた。これは明治に時代が下っても同様で、明治22年に市制町村制が施行される前まで東京府荏原郡衾村の4大字(平、東、中、そして谷畑)の一つだったし、施行されて以降の碑衾村時代に入っても地域的なつながりは維持し、のちに町制施行後に区制が導入された際も「第七区」(碑衾町は全部で10区に区割)として「谷畑」地区がそのまま自治の最小単位として維持された。
こうした流れを受け、この地域が耕地整理(区画整理)を行なう際、当初は谷畑地区のすべてをもって「衾耕地整理組合」が結成される予定だったが、どういうわけか「衾東部耕地整理組合」と「衾西部耕地整理組合」に分かれ、それぞれ別々に耕地整理事業を実施。衾東部が先に換地処分を行ない新地番を設定したが、衾西部の方は耕地整理工事自体は衾東部と同じくらいに終了したものの、換地処分は遅れ、新地番の設定はさらに遅れた。それだけでなく、新たな大字として「自由ヶ丘」を東京府に申請し、それらすべてがその大字の許可まで持ち越された。このことが、同じ谷畑地区でありながら、今日まで続いている自由が丘地区と緑が丘地区の分裂の端緒となっているのである。
自由が丘の地名の由来を書いているときには、隣の緑が丘のことをほとんど気にせずにいたのだが、緑が丘の地名の由来を書く際、どうして同じ地区だったものが、衾東部、衾西部と耕地整理組合を分けなければならなかったのか。この分裂をきっかけにして自由が丘と緑が丘が生まれたならば、この理由を調べずして、緑が丘の地名の由来を語ることなどできようか…という流れで生じた疑義というわけである。
予想できることとしては、現在にもよく見られるように「土地に関する争いがあったのでは?」ということである。耕地整理(区画整理)というものは、道路や水路等を一定の幅員を持たせ、土地を有効活用しようとする一方、どうしても減歩率が高くなり(もともと狭く少ない道路網を広く多い道路網とするだけで、道路以外の土地は減少する)、どの程度の道路率とするか、公共用地を確保するか等で揉めることが少なくない。また、大地主はもともと広い土地(かつ接道すらしていない土地)を有しているので、有効活用できる土地が増えることによるメリットが大きいが、100坪程度しか持たない零細地主は猫の額ほどの土地をさらに減らされるだけとなる。しかも零細地主の所有する土地というのは、一般的にメインストリートに接道していることがほとんどだったので、耕地整理そのものに意味がない(耕地整理などせずとも自分の土地は有効活用できている)ため、減歩率の多寡だけでなく、耕地整理自体に反対することも少なくなかった。こういう人が地域の有力者だった場合は、耕地整理(区画整理)自体が立ちゆかなくなってしまうだろう(耕地整理制度は多数決の原理はあったものの、確実に地域にしこりを残す)。実際、東京市に隣接する地域のいくつかは、耕地整理組合の成立までこぎ着けても完成できなかったのである。
衾西部は、以前に自由が丘の地名の由来でもふれたことのある、碑衾村村長を長く勤め上げた地元の名士であった栗山翁。一方、衾東部は江戸期以前よりの、これも地元に根ざす旧家の岡田氏が組合長を務めていた。では、この二人の仲が悪かったのだろうか? おそらく、そんな単純な話でもないだろう。この時代の方々は、滅私奉公的な方でなければ名士などになることは難しかったはずで、仲はよくなかったかもしれないがそんな単純なはずはない。本心そうだとしても大義名分のような別の理由があってしかるべきで、それがいったい何なのか。これを完全解明とはいかなくとも、客観的事象として示せるものはないだろうか。
以上、こういった疑義を有しているので「緑が丘、地名の由来 その2」がしばらく滞っている。こうご理解いただけるとありがたい、として今回はここまで。
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