以前、当Blogで慶大グラウンド前という駅名についてあれこれ考察してみたが、今回も同じ東急池上線の雪が谷大塚駅に対して考察してみたい。この駅をターゲットとした理由は、「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行所 JTBパブリッシング。2008年9月1日 初版発行)という書籍を眺めているときに、以下のような紹介文があったからである。
「引用開始」(同書121ページ)
雪ヶ谷駅が移転のため次の調布大塚と至近となっていたので、昭和8年(1933)6月にこの二つを統合して雪ヶ谷大塚とした。
「引用終了」
そして、「昭和8年(1933)6月1日雪ヶ谷大塚として開業」と紹介されている。これは明らかに誤りである。東急電鉄の正式史料においてはもちろんのこと、各種文献(たとえば「回想の東京急行」等)や当時の地図をはじめとして、ほとんどすべてが雪ヶ谷駅から雪ヶ谷大塚駅への改称を昭和18年(1943年。ただし年月日は不詳)としており、上記は著者の宮田道一氏の勘違いであるだろう。だが、確かに勘違いを犯しても不思議のない話なのである。
なぜ勘違いを犯しても不思議のない話かと言えば、上記引用部に示したように、昭和8年(1933年)に雪ヶ谷駅と調布大塚駅は合併したとすれば、この時点で雪ヶ谷大塚となるのは自明の流れであるのに、なぜか統合時点では雪ヶ谷のままであり、忘れた頃とも言える10年後の昭和18年(1943年)に突如として、雪ヶ谷駅から雪ヶ谷大塚駅に改称したのだから、「なぜ?」と思えるのである。この「なぜ?」を解明すべく、雪が谷大塚駅の変遷について検討していこう。
- 大正12年5月4日 池上電気鉄道、池上~雪ヶ谷間を部分開業。雪ヶ谷駅開設。
- 昭和2年8月19日 御嶽山前~雪ヶ谷間に、調布大塚駅を開設。
- 昭和3年10月5日 雪ヶ谷~新奥沢間を部分開業。雪ヶ谷駅を蒲田寄りに150メートル移設。
- 昭和7年10月1日 雪ヶ谷及び調布大塚一帯は東京市に編入され、東京市大森区となる。
- 昭和8年6月1日 雪ヶ谷と調布大塚が統合。調布大塚駅廃止。
- 昭和8年7月10日 池上電気鉄道臨時株主総会において、役員全員の辞任が承認。新たに五島慶太以下、目黒蒲田電鉄役員が就任。事実上、目黒蒲田電鉄の支配下に入る。
- 昭和9年10月1日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄に吸収合併。
- 昭和10年11月1日 雪ヶ谷~新奥沢間廃止。
宮田道一氏の勘違いは別にして、ここまでの流れは各種文献にほとんど違いはない。だが、ここから昭和18年に雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改称されるまでの流れは、この手の本のバイブルといわれている(らしい)「回想の東京急行 I」及び「回想の東京急行 II」(いずれも、著者 萩原二郎・宮田道一・関田克孝。大正出版)のうち、池上線を取り上げている「回想の東京急行 I」には、次のように記されている。
「回想の東京急行 I」134~135ページ
「引用開始」
昭和8年6月には、雪ヶ谷と調布大塚の両駅を統合して雪ヶ谷駅とし、廃止した調布大塚駅跡と急カーブの旧本線部分を東側へ移設のうえ、新設車庫の建設用地とした。
昭和9(1934)年10月1日、池上電鉄は目蒲電鉄に吸収合併され、翌年11月1日には未完の新奥沢支線も廃止となってしまった。
昭和18(1943)年には、駅も少し蒲田寄りの現在地に移転のうえ、雪ヶ谷大塚駅と改称して現在にいたっている。相対式のホームは合理化のため島式に変更され、駅舎は上下線間の蒲田寄りに設置した。
「引用終了」
大きく分けて3つの事象を確認できる。整理すると、
- 昭和8年6月…雪ヶ谷と調布大塚を統合して雪ヶ谷駅とし、廃止した調布大塚駅跡と急カーブの旧本線部分を東側へ移設のうえ、新設車庫の建設用地とした。
- 昭和10年11月…新奥沢支線廃止。
- 昭和18年…雪ヶ谷大塚駅と改称し、相対式のホームは島式に変更され、駅舎は上下線間の蒲田寄りに設置した。
と、時系列に並べることができる。これが正しいかどうかは、別の資料で補強する必要があるが、やはり公式資料を当たるのが最初に行うべきことだろう。最も都合のいい資料は、昭和18年3月15日発行の「東京横浜電鉄沿革史」である。
「東京横浜電鉄沿革史」の467ページには、曲線変更工事として雪ヶ谷構内が記載されている。ポイントを列挙すると、
- 建設当時半径 200メートル → 改良後半径 400メートル
- 工事延長 356メートル
- 工事費 15,663円
- 竣工年月 昭和12年10月
とある。また、同書484ページには「雪ヶ谷電車庫及び修繕工場は、昭和13年の新築」との記載があり、着工年月は明らかにされていないが、曲線変更工事を含めたこれらの工事の完了は昭和12~13年中ということがわかる。この記載内容と、先の「回想の東京急行 I」の記載内容と矛盾はしないが、ここで重要なポイントを忘れてはならない。それは、いわゆる新奥沢線の存在である。
いわゆる新奥沢線は、昭和10年11月1日に廃止となったが、少なくとも前日の10月31日までは雪ヶ谷~新奥沢間の電車を運行していたはずである。つまり、電車運行を行っている間は、線路や駅はそのままであったはずで、昭和8年6月1日に調布大塚駅を廃止したからといって、すぐさま曲線変更工事ができるものではない。工事延長356メートルという距離がそれを立証している。調布大塚駅の改札口付近から、雪ヶ谷方向に356メートル進むとそこはもう雪ヶ谷駅構内になり、まさに「東京横浜電鉄沿革史」に記載されている「雪ヶ谷構内」となるからである。
つまり、曲線変更工事は調布大塚駅廃止以降から行われていたかもしれないが、本格的に工事を始めるには新奥沢線の廃止を待たねばならず、すなわち、昭和10年11月1日以降になるわけである。また、この間には目黒蒲田電鉄による池上電気鉄道の吸収合併もあったわけで、このことも考慮に入れるならば、やはり新奥沢線の廃止以降に曲線変更工事及び雪ヶ谷電車庫及び修繕工場建設工事が本格化したと見るべきだろう。
以上を裏付ける別の資料として、昭和13年作成(測図)の3,000分の1縮尺の都市図を示そう。地図の正確性という問題は、また別にあるのだが、さすがにできてもいないものを図面化することはほとんどない(完成予想図は別)。では、その点を留意しながら確認してみよう。
この地図から明らかなように、昭和13年の時点でほぼ現在と同様の構造になっていることが確認できる(検車区等は、上図中の東調布警察署及び南側の空白部分に後につくられる)。これは、「回想の東京急行 I」に記述のあった昭和18年における事象のうち、雪ヶ谷大塚駅に改称した以外のすべてが、この時点で既に地図上に明記されていることを意味する。つまり、同書では昭和18年にあったとされるもののほとんどが、昭和13年までには完成していたのである。
では、池上電気鉄道時代の、曲線変更工事や雪ヶ谷電車庫及び修繕工場新築工事、新奥沢線廃止前はどうなっていたのだろう。同じ地域の昭和4年作成(測図)の同図と比較すると、上記の議論を補足することができるだろう。
両図を比較すると、雪ヶ谷~調布大塚~御嶽山前がどのように変遷してきたかが明らかだろう。両図を比較すれば、いくつもの重要なポイントに気付くはずだ。
と、ここまででいったん続くとさせてください。
女性運転手であったので太平洋戦争末期であったと思いますが調布大塚駅を出て雪谷駅の手前で場内信号が赤であるにも関わらず誘導信号で徐行運転で雪谷駅に進入したことを覚えて居ります。廃止は電力節約のために500
メートル未満の駅が廃止された時に行われたものと思います。現在踏切の手前の三角の空き地が蒲田方面のホームの跡であると思います。
投稿情報: 湯山洋三 | 2009/05/24 13:51
湯山洋三 様、コメントありがとうございます。
「電力節約」
なるほど、これは歴史を後付けで読んでいるだけではピンと来ないものですね。仰せの通り、短い駅間を発車・停車することで電力を多く消費しますし、回生ブレーキ等なかった時代であれば納得です。
なお、鉄道ファン先達の方々の文献にも記されているように、池上電鉄時代の池上線駅舎の写真がほとんど残されていないため、なかなかこのあたりのことを「確定」させることは難しいようです。
投稿情報: XWIN II | 2009/05/25 07:11