前回は、多くの文化人も巻き込んだ反対運動により、「衾」駅(仮称)から「自由ヶ丘」駅への改称が決定し、自由ヶ丘は学校名から駅名に昇格した、というところまで話を進めた。今回は、その続きからとなる。
単なる学校名から、自由ヶ丘は駅名となった。この名前は、当時からハイカラ(今は死語だな…)なイメージを持っており、駅の最寄には自由ヶ丘学園くらいしかないという言い訳だけでなく、積極的に地元新興住民はこの駅名を支持した。その結果、「東京府荏原郡碑衾町大字衾○○番地」という住所表記をダサいと思っていた新興住民達は、各々勝手に、そして示し合わせたかのように「東京府荏原郡碑衾町自由ヶ丘駅前○○番地」と名乗るようになった。これは、先に紹介したこの地域の良好な住宅地の先例である洗足住宅地や多摩川台住宅地(現、田園調布)でも見られたものである。洗足住宅地では、「東京府荏原郡碑衾町大字碑文谷○○番地」が「東京府荏原郡碑衾町洗足駅前(あるいは洗足)○○番地」など、多摩川台住宅地では、「東京府荏原郡東調布町大字下沼部○○番地」が「東京府荏原郡東調布町田園調布(あるいは田園調布駅前)○○番地」などとされた。
だが、これは自称に過ぎない。戸籍や土地の登記簿をとれば、自由ヶ丘などはなく、碑衾町大字衾字谷畑西などとなっていた。この流れを受けて、続いては新興住民達から地名改正要求が起こったのである。
新興住民というのは性質が悪い、と思わざるを得ないのは今も昔も変わらない。この連載の始めに、自由が丘(自由ヶ丘)を町名等で採用している地方自治体は10以上あることを示したが、本家本元の目黒区自由が丘も、その根は変わらないのである。伝統ある地名をダサいものだとして消し去り、見栄えのいい、耳ざわりのいい名前を勝手につけていく。このこと自体は、大正デモクラシーの時代より始まったわけではなく、江戸期以前より瑞祥地名としてあるにはあったのだが、新たに付けるだけならまだしも古いのを消し去るというのはいかがなものか、と思わずにはいられない。
と、少々横道にそれてしまったが、地名改正要求は、当時事業進行中であった衾西部耕地整理組合にも向けられた。組合長は、碑衾村発足から20年以上にわたる激動の時代、村長を務め上げた栗山久次郎であり、時代の変化とその要求から、この新興住民達の要求を汲み取り、当時としては画期的な「自由ヶ丘」という名前を衾西部耕地整理組合の事業用地すべての地名(大字名)として東京府に申請した。時は、東京市域拡張作業の真っ只中。昭和7年(1932年)6月16日付、東京府告示第347号により荏原郡碑衾町大字自由ヶ丘として、大字衾より分離されることが認可された。東京市目黒区になるわずか3か月ほど前でありながら、それを待たずに自由ヶ丘は正式な地名(大字名)となったのである。
この地図は、昭和4年(1929年)当時のものに、後付で昭和7年(1932年)10月1日に東京市目黒区となった際の地名(町名)変更を反映させたものである。荏原郡碑衾町大字自由ヶ丘から東京市目黒区自由ヶ丘となっても境界変更はなかったので、線に囲まれた部分が当初からの「自由ヶ丘」である。これは、現在の自由が丘一丁目~三丁目とほぼ同じ区画であり、他地区に見られるブランド地名の拡大はない。ちょっと細かいので、駅周辺を拡大してみよう。
拡大してもわかりにくいか(苦笑)。見るとわかるが、駅前広場はない。また、住宅などがあるのは駅周辺近くまでで、いわゆる徒歩10分圏を過ぎれば、空き地(農地など)が広がっているほか、駅南側の軟弱地盤(九品仏川周辺)ではほとんど建物が見当たらない。これは、わざわざそんなところに建物を建てなくても、他にいくらでもあるということだろう。
自由ヶ丘が正式な地名、つまりは行政地名(町名)となって間もなく、世の中は大正デモクラシーの自由の空気から、戦争の時代を迎えるようになる。その時、時代は自由ヶ丘という時勢に合わない地名を問題視するのであった。
次回に続く。
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