前回は、衾西部耕地整理組合の組合長を務める栗山久次郎が、なぜ自由が丘誕生の祖(像の横にある顕彰碑にそう書かれている)とまでいわれるのか。それは、結果的に衾西部耕地整理組合の区画整理を行った地すべてが「自由ヶ丘」という名前になったことと、自由ヶ丘学園の土地を提供したことが大きい、というところで終わった。今回は、その続きである。
自由ヶ丘学園については、この連載の中で既にふれたように、東横線の開通と九品仏前駅(現、自由が丘駅)の設置をきっかけに、この地に開校したわけだが、学校用地というそれなりの広さを持つ土地を確保するには、多額の資金が要る。自由を名乗るような学校を作ろうという人がそんなにカネを持っているわけがなく、これをより安価に済ませることが重要である。それには、安価に土地が提供されるか、多額の資金援助が受けられなければならない。そこでパトロンとして登場するのが、栗山久次郎その人である。衾西部耕地整理組合の理事長であった彼は、事業用地の一部を安価で手塚岸衛に貸し与えた。自由教育という理念に、大いに賛同したからだと伝えられている。
こうして、自由が丘という地名の端緒である自由ヶ丘学園の誘致を行う一方で、東横線の駅誘致にも動いた。そして、九品仏前駅(現、自由が丘駅)の設置後は、目黒蒲田電鉄二子玉川線(現、東急大井町線の自由が丘駅~二子玉川駅間)の接続駅として、奥沢駅の予定だったものを九品仏前駅に変更させることにも成功したのである(もっとも、要因はこれだけでなく、渋谷を拠点としようとする動きがあったことにもよる)。
お手元に東京の地図をお持ちか、Google Maps等をご覧になれる方は、東京都世田谷区奥沢の東急目黒線奥沢駅西側から、東急大井町線九品仏駅北側に通ずる道路を確認していただきたい。この道路の南側を目黒蒲田電鉄二子線は通る予定であった。線路の線形から見ても、奥沢駅経由の方がきれいに見えるが、接続駅を奥沢駅から九品仏前駅(自由が丘駅)に変更し、乗換駅となったことが、のちの自由が丘発展に大きく寄与したのは疑いのない事実である。一方、奥沢駅方面では、計画変更は約束違反だとして訴訟まで起こされる事態となったが、あとの祭りであった。
目黒蒲田電鉄二子玉川線の敷設にあたり、九品仏前駅をその乗換駅とすることができたが、これとは別に駅名改称問題が起こっていた。東横線しかないときは、九品仏(浄真寺)の最寄り駅であったのだが、二子玉川線の開通により、九品仏への参道前に新駅ができることとなり、この新駅に九品仏という名前を譲ることとなったのである。では、従来の九品仏前駅の駅名をどうするか。東京横浜電鉄(実質は目黒蒲田電鉄)は、その候補として「衾」駅を考え、二子玉川線乗り入れに伴う東横線高架化工事(当時、東横線は地上を走っていた)の地元説明用の図面に「衾」駅(仮称)という名前を明示したのである。
通常であれば、当時はこういった駅名改称は公になることは少なかったが、ちょうど東横線高架化工事というものがあったため、地元の新興住民達に知れ渡ることとなった。「衾」という名前は、当時、この地域は東京府荏原郡碑衾町ということからわかるように、この地域の昔から伝わる由緒ある村名だった。よって、古くからの住民にとってはなじみがあり、駅名となるのは誇らしい話であったが、東横線開通後に居住し始めた新興住民達にとっては田舎くさい名前でしかなかった。このあたりの感覚は古今東西、今も昔も変わらないような気がするが、「衾」駅反対運動が起こったのである。
多くの文化人も巻き込んだこの反対運動の結果、「衾」駅から「自由ヶ丘」駅への改称が決定し、二子玉川線乗り入れよりも10日前の昭和4年(1929年)10月22日、ついに自由ヶ丘は学校名から駅名に昇格したのである。
次回に続く。
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