前回は、自由が丘となるきっかけは自由ヶ丘学園にあり、これは目黒蒲田電鉄傘下の東京横浜電鉄による東横線の敷設と、九品仏前駅の設置があってこそ、というところまで話を進めた。今回は、自由ヶ丘学園の名が地名として定着するまでの流れを見ていこう。
この時代は、大正デモクラシーの洗礼を受けていたことを忘れてはならない。いわゆる市民層の登場も含め、自由ヶ丘学園という名前を持つ学校が生まれるような時代である。東横線の開通は、自由ヶ丘学園の誘致だけでなく、住宅や商店の誘致も進み、次第に近郊農村から市街地への発展も進んだ。
だが、大正末期の地図で確認できるように、この地域はまともな道路もなく、あっても曲がりくねった農道があるだけで、このままではスプロール開発されてしまい、良好な住宅地とはならなくなってしまう。しかし、幸いなことにこの地域には良好な住宅地の見本ともいうべき存在があった。田園都市株式会社の展開する洗足住宅地、多摩川台住宅地(現、田園調布)である。先行するこれら良好な住宅地は、この周辺の地主達の区画整理事業の模範となったのである。
その中の一つに、衾西部耕地整理組合があった。大正15年(1926年)1月7日に設立されたことからもわかるように、田園都市株式会社の成功を受けてのものである。組合長は、栗山久次郎。長年、碑衾村の村長(明治22年6月~明治42年3月)を務め、当時は引退していたが、地域に顔の利く人物であった。彼の像が熊野神社内にある。
像の横には、彼を顕彰する碑も並んでいるが、これは後年になって立てられたもので、像の台座の横に、彼をたたえ、像を建立した理由も銘記されている。
昭和9年(1934年)10月に、衾西部耕地整理組合によってたてられたことが確認できる。昭和9年1月に亡くなるまでの略歴が語られているが、この地域の有力者というだけでなく、人望も厚かったことが伺える(昭和10年に刊行された『栗山久次郎翁略伝(富岡丘蔵 著)』という書物からも確認)。
衾西部耕地整理組合の組合長を務める栗山久次郎が、なぜ自由が丘誕生の祖(像の横にある顕彰碑にそう書かれている)とまでいわれるのか。それは、結果的に衾西部耕地整理組合の区画整理を行った地すべてが「自由ヶ丘」という名前になったことと、自由ヶ丘学園の土地を提供したことが大きい。
次回に続く。
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