前回は、「自由が丘」(または「自由ヶ丘」)という地名が全国的に多く見られ、それは地名そのものがブランドとなっているからというところまで話を進めた。今回は、「自由が丘」の由来について話を進めていこう。
まずは、公式?と言っていいのか、目黒区のホームページ内にある「目黒の地名 西部地区 自由が丘」をご紹介しよう。由来話は、概要であればほぼここで事足りてしまう。これをなぞるように説明すれば、由来は昭和2年(1927年)11月14日設立の自由ヶ丘学園(中学校、小学校、幼稚園を併設)から、となる。この出来事がなければ、この地が自由が丘(当初は自由ヶ丘)と呼ばれることはなく、地名としての自由が丘もどこか別の場所となっていた可能性どころか、地名として成立していたかも微妙である。まず、自由ヶ丘学園ありき!なのだ。
上記は、現在の自由ヶ丘学園高等学校の表札?だが、学校部分も含め、ここ10年程度の間に新築されたようで、70年以上の伝統を外見から感ずることはできない。
だが、何もないようなところに学校を設立しようとは思わない。自由ヶ丘学園の誘致に決定的な役割を果たしたのが、1927年(昭和2年)8月28日の目黒蒲田電鉄傘下の東京横浜電鉄による渋谷駅~丸子多摩川駅間(現、東急東横線)の開通である。この際、途中駅として九品仏前駅(現、自由が丘駅)が設置され、この最寄の地に自由ヶ丘学園が誕生したのである。東横線開通以前のこの当時の古地図を見ると、近郊農村の一つに過ぎないことがわかる。
どこが自由が丘?といった感じの地図だが、これは大正末期のものである。東横線開通のほんの数年前のもので、「西谷畑」(当時の地図なので右から読む)と見えるように、このあたり一帯は「谷畑」(やばた)と呼ばれる農村地帯だった。主な施設としては、「37.0」とある数字の横に鳥居マークがあるが、ここが今もこの地にある「熊野神社」である。現在の地図と照らし合わせる場合、この神社と地図下方に波線状に見える九品仏川(現在、目黒区と世田谷区の区界になっている九品仏川緑道)、地図左上から右斜め上に通る道路(現在の目黒通り)が目安となるだろう。
以上のことからわかるように、東横線の敷設と九品仏前駅の開設がなければ、ここが自由が丘となることはなかったというわけである。
次回に続く。
コメント