本記事で1,901本目の記事です。(その昔の巻頭言シリーズだと通番を打っていたので、常に何本目かと意識していたが、本Blogに移行してからはそうでなくなったので、これだけの本数に達していたのかと驚くと同時に、年数本しか更新していない現状、生きているうちに2,000本に到達できるのかという危惧が…。)
さて、今回はこの枯れたBlogにコメントをいただいたことに端を発した記事です。(新横浜線方面や蒲蒲線方面の記事はどうした・・・んがんぐ。) タイトル通り、1932年(昭和7年)、東京市が周辺の町村を合併し、いわゆる大東京、東京35区に拡大した際、荏原郡に属していた平塚町大字上蛇窪が東京市荏原区上神明町になったわけですが、既に市街地化が進み、単独町で1区を構成する(同様の例は瀧野川町→瀧野川区)ほどでした。
1911年(明治44年)の大字上蛇窪とその周辺の地番入り地図ですが、薄黄色が田畑、緑色が林地、朱色が寺社地(ここでは上蛇窪神社、天祖神社、上神明社など様々な呼び名)、白色が建物のある土地です。ご覧の通り、ほぼ田畑中心の典型的近郊農村だと見えます。これが、大正末期から昭和初期にかけて鉄道網が充実することで、1937年(昭和12年)には、以下のように変貌します。(下地図は©国土地理院。)
空地はわずかで、おそらく農業は行われていないものと推定できます。蛇窪という名は嫌われ、神明という神社に由来する名前にも変わりました。(このあたりの話は、14年程前に書いた「「蛇窪」という地名が消滅する過程で、地名の保存とは何かを考える」を参考にされてください。)
地図の時代幅は26年の差がありますが、1911年頃の風景は、目黒蒲田電鉄や池上電気鉄道の進出までは維持されていたので、大正末期、よりターニングポイントを強調するなら100年前の関東大震災を契機とした郊外進出からです。よって、1924年頃から市街地化が進み、東京市になる前には市街地化はほぼ完成していたので、わずか10年未満で一気に進んだとなるわけです。
今回は、大字上蛇窪→上神明町を採り上げましたが、このような地域は東京郊外の至る所で見ることができました。特に、鉄道網の充実していたエリアは顕著で、人口爆発ともいえる拡大は様々なところに影響を及ぼしたでしょう。そんなことを考えつつ、今回はここまで。
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