今回は、東京都大田区南端に位置する「六郷」地域を採り上げる。「六郷」とは、「郷」を村落的な意味合いに捉え、6つの村落の集合体的な意味合い(無論、6という数え方の縁起にも由来するだろう)で、多摩川下流の屈曲部を指す地域名称として古くから伝わるものである。江戸期には「六郷橋」やそれに代わる「六郷の渡し」という呼称から、全国にとどろく東海道の宿場名に連なるほどの有名な地域名だったことがわかる。さらに江戸期には「六郷領」という領名にも採用されていた。
「六郷」の6つの村落については、八幡塚、古川、雑色、高畑、町屋、そして出村(八幡塚より分離)が数えられ、村という単位では6つでなく5つであり、このことからも「五郷」でなく「六郷」という6に対する拘りも窺えるが、「りくごう」でなく「ろくごう」という読み方なので、この解釈は微妙かもしれない。(道塚村を含めて六郷というのが通説だが、明治期以降の関係性は限りなく薄い。)
明治に入り、江戸から東京へ、武蔵国から東京府へ、さらには大区小区制等、行政区域等の変遷は多かったが、末端の村々までは大きな変革はほとんどなく、六郷地域の5つの村はほぼそのまま江戸期から引き継がれてきたが、明治22年の町村制施行によって、大きな変革を迎えた。六郷地域の5つの村々が合併し、新たに六郷村として成立したのである。それまでの村々は六郷村の大字として以下のように位置付けられた。
六郷村 = 八幡塚村 + 古川村 + 雑色村 + 高畑村 + 町屋村
- 八幡塚村 → 六郷村大字八幡塚
- 古川村 → 六郷村大字古川
- 雑色村 → 六郷村大字雑色
- 高畑村 → 六郷村大字高畑
- 町屋村 → 六郷村大字町屋
なお、各村々の字はそのまま大字の小字として継承されている。よって、部分的に飛地の解消はされたものの、大半は大字内での飛地が散在する形で残った(町村制における新村は、基本的に飛地を認めていなかったが、新村内の大字の飛地は黙認していた)。江戸期のように、土地の売買などまったく認められていなかった時代ならともかく、そうでなければ飛地の散在は不便きわまりない。そこに都市化の波が訪れ、耕地整理(土地区画整理のことだが、耕地整理法によって行われることが多かった)が行われると地番整理だけでなく、大字・小字の境界整理も同時に行われるようになる。
明治後期の東京府荏原郡六郷村のエリア(明治45年に神奈川県と境界変更される以前)
六郷村の場合、明治初期から鉄道が通ったが、線路が敷かれるだけで村内に停車場(駅)はなかった。川向こうの川崎とはるか数キロ先の大森だけで純農村地帯として大きな変化はなかった。明治後期になって東海道上に京浜電気鉄道(現京急電鉄)が敷設されると、徐々に状況が変わり始め、世界大戦による好景気、関東大震災による郊外移転の加速、さらには大工場の進出などで都市化が急速に進展し、この気運に乗って六郷村のほぼ全域で耕地整理が施行される。
耕地整理は、村内の大動脈である東海道と京浜線(東海道本線)、そして主要既存道路の骨格をそのまま活かしつつ、東西・南北に道路を新設し、碁盤のように街区を構成した。よって、六郷村の大字境界とは大半が馴染むものではないので、街区や道路等で新たに再構成するが、ここで六郷村は一つの決断をする。それは町村制から市制への移行である。
当時、東京府内では、東京市(15区)外の都市化が進み、例えば豊多摩郡渋谷町の場合、町の人口は新潟県の県庁所在地である新潟市に匹敵するほどになっており、町制から市制への移行を模索していた。しかし、渋谷町は東京市に隣接していたため、東京市への合併という目があったこともあって様子見だった。だが、行政区画は市と同等の構成(町村制における大字を市制における町丁と再定義)を採っていて、独自の上水道等、都市基盤を運営するほどになっていた。六郷村の場合は、ここまでではないが、東京市と離れている(現在のJR品川駅あたりまでが東京市)こともあって独立して六郷村から町、さらには六郷市まで視野に入れていたのである。
一方、関東大震災による郊外移転の機運は、東京府の都市計画にも大きな影響を与え、従来の市域をはるかに超えるいわゆる「大東京」というべき、都市計画区域を生み出していた(当初計画は関東大震災目前にできていたが、震災後大きく見直されている)。事実上、この都市計画区域がそのまま現在の東京23区となるが、これによって「都市計画区域=大東京」、つまりは大東京市に向けてのプレリュードとなる。折しも、東京市は当時、日本一の人口を誇る市ではなくなっていた。それは、大阪市が周辺町村を合併し、いわゆる「大大阪市」を実現し、面積そして人口も東京市を大きく上回ることとなっていたのである。首都である東京が大阪の後塵を拝する訳にはいかないとして、「大大阪」を超える「大東京」が目標に据えられた。これは名実共に一等国となっていた日本の首都が、他一等国のニューヨーク、ロンドン、パリなどと比較対象とされていたことも大きい。
六郷市か大東京の一部となるかはともかく、六郷村は市と同等の行政区画を目指した。そして渋谷町と同様に小字を廃して大字のみとし、事実上、大字を市の町丁と同様に扱うようにした。これにより、大字区域の見直しと地番整理が行われ、新たに六郷町(昭和3年に村制から町制に移行)は以下のように再構成された。
- 東京府荏原郡六郷町大字八幡塚
- 東京府荏原郡六郷町大字古川
- 東京府荏原郡六郷町大字雑色
- 東京府荏原郡六郷町大字高畑
- 東京府荏原郡六郷町大字町屋
- 東京府荏原郡六郷町大字出村
- 東京都荏原郡六郷町大字小向(明治45年神奈川県より。河川敷の一部)
ここで大字八幡塚の一部であった「出村」が単独大字として起立した点に注目である。六郷と言いつつ、実際は5村(大字)であったものが、初めて6大字となり(小向は例外)、名実共に六郷(6郷)となったのである。新興住民はこの住所を以下のように通用した。
- 東京府六郷町八幡塚○○番地
- 東京府六郷町古川○○番地
- 東京府六郷町雑色○○番地
- 東京府六郷町高畑○○番地
- 東京府六郷町町屋○○番地
- 東京府六郷町出村○○番地
田舎くさい郡名や大字呼称を外した。これは住所を省略するという意味合いもあったが、それ以上に新興住民は「田舎くさい」ものを排除した。これは六郷町だけではなく、都市化が進む東京府下ではどこでも当たり前のように見られるものであった。この行政区域並びに名称変更等を行って3年後、ついに六郷町は東京市に合併となり、東京市蒲田区の一部となった。この際、行政区域はそのまま踏襲されるが、一部で名称の見直しが行われた。
- 東京府荏原郡六郷町大字八幡塚 → 東京府東京市蒲田区六郷町
- 東京府荏原郡六郷町大字古川 → 東京府東京市蒲田区古川町
- 東京府荏原郡六郷町大字雑色 → 東京府東京市蒲田区雑色町
- 東京府荏原郡六郷町大字高畑 → 東京府東京市蒲田区高畑町(大字小向を含む)
- 東京府荏原郡六郷町大字町屋 → 東京府東京市蒲田区町屋町
- 東京府荏原郡六郷町大字出村 → 東京府東京市蒲田区出雲町
原則として大字区域はそのまま踏襲されるが、六郷地域で最も影響力のある「八幡塚」が「六郷」の名を継承することで「八幡塚」は消滅。八幡塚の一部であった「出村」(でむら)も、「出雲」(いずも)と改称され「出雲町」となった。無論、「出雲」なる地名は六郷地域にこれまでまったく存在せず、出雲神社などに由来するものもない。いわゆる美称地名として採用されたわけだが、「出村」の「出」だけ残したところにまったく新規で珍奇なものではないとする主張は読み取ることができる。
だが、ここで大きな問題が起こる。それは、八幡塚だけが「六郷」を継承し、古川ほかにとっては六郷を継承できない、事実上の消滅である。江戸期あるいはそれ以前から連綿と地域の名称として継承され続けてきた「六郷」が東京市合併と共に消えただけでなく、かつては同レベルの村に過ぎなかった「蒲田」を区名として冠することは、八幡塚及び出村以外の地域アイデンティティを呼び覚ますには十分に過ぎた。ここで、旧六郷町エリアは行政区域の再編がまたもや為される(なお、東京市蒲田区においては、旧蒲田町でも同様の問題が起こっている)。
従来の区域とは無関係に、新たに主要道路や鉄道などを境界として町名・地番整理。新たに東六郷、南六郷、西六郷、仲六郷としたのである。これは、東京市側の町名・地番整理方針にもかなったものであり、ここに古川などにとっての「六郷」は復活をはたした。一方で、古川町、雑色町、高畑町、町屋町、せっかく作ったばかりの出雲町は完全に消滅した。そして、戦後になって住居表示制度に合わせて、新たな行政区画と境界変更や町丁名変更などがなされるが、東六郷、南六郷、西六郷、仲六郷はそのまま継承されている。
以上、「六郷」という地名がどのように都市化の過程で扱われてきたかを簡単に見てきた。こういった流れは、多分に新興住民の意向も当然あったことだろう。現在、雑色は京急電鉄駅名など、高畑や出雲は小学校名などに残されているが、町屋や古川は跨線橋や神社などであり、ほとんど知る人はいなくなっている。
都市化の過程においては美称もあるが、それ以上に他地域から通用しうる名称が採用される傾向にあり、「六郷」がそれに合ったと結論付けられる。といったところで、今回はここまで。
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