随分久方振りとなる池上電気鉄道の話題。業務多忙につき、なかなか実地や資料収集などができない停滞状態が続いているが、閑話休題的に今回は「時刻表(1925年4月号)に見る池上電気鉄道」と題して、1925年(大正14年)頃の状況を追ってみよう。
1925年3月(4月号発売時)といえば、池上~雪ヶ谷間を2年前に延長開業したものの、行く手を目黒蒲田電鉄に遮られたも同然(その名の如く、ほぼ平行して目黒~蒲田間を先行開業されてしまい、雪ヶ谷~目黒間の工事が意味がなくなってしまっていた)状態で、接続先が五反田に変更される直前。もっと言えば、経営陣が高柳社長が辞任する前であり、まったく将来性が見出せない時期にあった。
何ともあっさりとしたもので、時刻表としつつも詳しい時刻などなく、始発と終発、運転間隔程度しか載っていない。運賃も全区間のみで、各駅間のものもない。もっともこれは、ライバルであった目黒蒲田電鉄もこの当時は同様で、小規模(零細)私鉄という扱いであることに大差はない。
さて、個別に見ていくと、注目はダイヤ改正が「大正十二年五月四日改正」とあるところで、池上~雪ヶ谷間を延長開業してから一度もダイヤ改正がされていないということである。単線でかつ、暫定開業という位置づけであれば、そこまでダイヤ改正の必要性はないのだろうが、中途半端な単線(そして盲腸線)で乗客が伸びないという現実がそれを後押ししたのは言うまでもない。
そして、駅名が蒲田から雪ヶ谷まで6駅紹介されている。光明寺と御嶽山前の間に3文字分の空白が気になるが、ここには末広(駅)が入る。ただ、気になるのはわざわざ3文字分の空白があるということは、単に記載漏れと言うよりはもともと記載のあったものが消されたとも考えられる。末広駅は、のちに東調布と改称され、さらに久ヶ原、そして久が原と改称されていくが、池上西部耕地整理組合による耕地整理(いわゆる区画整理)工事の開始前に開業した末広駅が耕地整理後に現在地(久が原駅)に十数メートル移動したことを考えると、もしかしたらこの時期に一時休業していた可能性もある。
他に気になることは蒲田~雪ヶ谷間に14分を要することで、駅数は7駅ある(末広駅があった場合)ことから、駅間2分程度。現在の蒲田~雪が谷大塚間は10分で、駅数は同じく7駅と変わらないので、電車の性能や単線と複線の違いもあるだろう。もっとも、12分から22分間隔で運行していたともあるので、単に電車の性能差と言えるか。
といったところで、今回はここまで。
お久しぶりでございます。池上電気鉄道の名前が出て、とても嬉しかったです。お忙しいことと思いますし、これから年末に向かいますが、お風邪など召されぬよう、またお時間おありのときに、記事を挙げていただけたら、とてもうれしいです。
こちらは、馬込に住んでいた方が、昭和20年代の終わりに撮影した写真を、友人経由で見せていただく機会を得ました。場所の特定できないものも多々あります。転載可能ですので、もしご興味がおありだったら、ご披露させていただきたいと思います。(場所の特定に苦慮しております)
投稿情報: りっこ | 2015/10/23 20:04
所要時間に関しては、路面電車のような小馬力の小型電車だったので速度が遅かったのでしょう。その後川崎財閥が経営に乗り出して桐谷までの延長に備えて国鉄から譲り受けた50馬力4個のボギー車を運転することで大幅にスピードアップされたようです。
投稿情報: 木造院電マニア | 2015/10/29 12:20
洗足2丁目に住む者として、時々興味深く拝見しております。
ところで、洗足の事でどこを探してもわからないのが、終戦直後から数年の間、進駐軍に接収された家々とそれらの住人(主として米国人)の生活ぶりです。私も小学生の頃、米国人の子供たちと遊んだり、家に行ったりした記憶をとても懐かしく思い出します。
これらの情報はどこで見つけられるのでしょうか?もしご存じでしたら、お教えください。
投稿情報: タケシ | 2016/07/09 12:28