ザッケローニ監督采配批判は、とどのつまり、日本のサッカーが世界に通用しなかった(あるいは研究され対策されていた)にもかかわらず、その現実に目を背け、メルヘンの世界(日本は強いという神がかりな幻想)から物を見ているために起こっているといえる。こういう結論を得るに至った論を以下から展開していこう。
予想された展開ではあるが、今さらながら騒ぎすぎのサッカー日本代表のふがいなさぶりが、監督批判に向いている。騒ぎすぎなのは、放映権料をはじめとして多額のコストを回収しなければならないマスコミ諸君、そしてスポンサー諸君の気持ちを考えれば頷くことしかできないのだが、それ以上に大笑いなのは、ザッケローニ監督の采配を批判する人たちだ。様々な批判はあるが、概ね次の点に集約されよう。
- 日本のサッカーを貫いていない。
- これまで積み上げた戦術とは違うことを行っている。
- 試合中にちぐはぐな采配を行っている。
こういう批判をする人たちは、正直言って監督経験(あるいは人の上に立ったこと)がないならわからないでもないが、そういう経験がありながらこのような批判が出ているなら、おそらく自分自身が結果を出せていない自己満足腐れが多いに違いない。
日本代表第1戦をLIVEで観戦(TV等も含む)されていた方ならわかるように、明らかに「自分たちのサッカー」とやらを行えるような状況ではなかった。自分だけが、自分のチームだけが行うようなものであったとしても、メンタル面などでうまくいかないことが少なくない。加えて、相手のある試合であれば、当然相手チームの選手の動き、作戦、状況。さらには会場の雰囲気、気候などにも左右されよう。つまり、コートジボワール戦では「自分たちのサッカー」などできる状況になかったのである。
そして、言うまでもないことだが、選手は監督の忠実な駒ではない。球際での強さを発揮することや、相手のディフェンシブな動きに臨機応変にどう合わせていくかというのは、個々の能力、自分の頭で考えることが大きなものである。忠実に動いてほしいが、それは常に動きまでもが監督に忠実であるのではなく、結果として監督の意図が実現できてさえいれば、過程など何でも構わないのだ。
要は、指揮官(監督)に求められているのは「自分たちのサッカー」をすることではなく、「勝負に勝つこと」なのである。そのために、選手個々には監督の意図がしっかり伝わるようなことを徹底して行い、それを個々の選手の能力に合わせて植え付けていく。それが練習の場でできなければ変えていくこと(選手ないしは戦術)も求められようが、当たり前だが練習でできないことは本番でできるはずもない。おそらく、ザッケローニ監督は招集した選手たちならできるはずだ、という確信を持って本大会に臨んだことだろう。
だが、結果はそうでなかった。様々な理由があって(これはその中にいなければわからないことで、外から見ている人にはさっぱりだろう。いや、中にいたからといってわかる保証もない)、「自分たちのサッカー」ができない状況に置かれてしまった。そういう中、いつまでも「自分たちのサッカー」に拘ってなどいられない。求められるのは結果、つまりは勝利なのであって「自分たちのサッカー」などではないからである。
だからこそ、ザッケローニ監督はあらゆる手段をもって現状──つまりは勝利できない状況を打開するために、様々な戦術を駆使しているのである。まがいなりにも彼ら、日本代表はプロのサッカー選手であって、「自分たちのサッカー」だけしかできない選手などではないはずだ。なぜなら、日本代表以外でのクラブチームなどでそれぞれ活躍している(レギュラーから外れていたとしてもチームに加わっているだけでも大変なこと)のだから、それぞれ求められているものは異なり、サッカーならではの臨機応変能力が求められてしかるべきといえる。
あのスペインですら、自分たちのサッカーに固執した結果、研究され尽くして上手くいかず、歯車が狂って修正できなくなった。デルボスケ監督は、自分たちのパスサッカーができて満足だっただろうか。選手たちは満足できたのであろうか。繰り返すが、サッカーは自分だけ、自分のチームだけで行う競技ではない。相手がいるのである。敵を知れば百戦危うからず、などと故事を持ち出すまでもない。ただでさえ、相手と比べてレベルや戦力が落ちるのであれば、いつまでも「自分たちのサッカー」に拘り続けていてなどいられるはずがない。「自分たちのサッカー」に殉ずることが満足なのであれば、監督(現場の指揮官)など不要である。現場は何が起こるかわからないからこそ、指揮官に臨機応変能力が求められ、それを実践できる選手がいなければならないからだ。
迷走、場当たり、付け焼き刃…。なぜ指揮官はこのようなことをしなければならないのかに注目すれば、それは間違いなく相手に「自分たちのサッカー」が通用しないことのあらわれなのである。それを打開しようとして選手が実現できないために、迷走などといわれるが、成功すれば奇策と転ずるように、結局は選手がそれをできるかどうかに過ぎないのである。
さて、結論といこう。ザッケローニ監督采配批判は、とどのつまり、日本のサッカーが世界に通用しなかった(あるいは研究され対策されていた)にもかかわらず、その現実に目を背け、メルヘンの世界(日本は強いという神がかりな幻想)から物を見ているために起こっているといえる。強い相手に正攻法が通用しないことは、古今東西揺らぐことがない事実である。それを覆すには相手を研究し、弱点を突き、自分の土俵で戦いを仕掛けることが重要だ。それができていたか。監督ができていても選手ができていないことは結果から明らかであるし、その過程もTV観戦した限りにおいては動かしがたい事実に映った。
そうなのだ。監督は一流でも選手は二流。この事実がワールドカップブラジル大会で得られたもので、さらに上を目指していくには選手個々人のフィジカル・メンタル両面のレベルアップが求められよう。といったところで、今回はここまで。
胸のすく思いです。
個人的にはギリシャ戦は(結果はでなかったものの)何かを仕掛けようとし続けていたようには見えたので、選手も監督もできることはやりきったのかな、と思ってました。
今更ながらですが、オリンピックにしても柔道にしてもW杯にしても、世界ランキングを冷静に評価した報道をしてほしいものです。
投稿情報: inspirethenext | 2014/06/23 22:55
結論はそう思います。
只、代表チームの選手達は臨機応変能力が足らないですよ。
基本、激しさと速さがなさすぎる。
投稿情報: muravic | 2014/06/24 17:05
私たち以上にやっている選手は茫然自失でしょうね。ショックは大きいでしょうね。
今回の日本代表はドイツ大会同様に、コンディショニングの失敗が大きいと思いたいですね。キャップ地をイトゥにしたのが大間違いでしょう。
ザックの選手起用にはやはり、?がつきます。
23名のメンバーのうちGK2名を抜かすと、4名も出ていない。
(清武なんか最後の数分じゃなかったけ。斉藤も出すチャンスあっただろうに。)
ケガ明け選手の方がいいわけ?
特に絶不調の香川の影響は大きかった。
気になったのは何時の頃からか、選手の謙虚さがなくなったこと。
まだまだCランクの日本なのに・・・言う事だけは大きい。
マスコミはおっしゃる通り、強いものにはすり寄ってゴマすり、弱いものとみるやこれでもかとコキ下ろしますね。
まだまだレベルの高い試合が観れることはうれしい限りです。
投稿情報: nu | 2014/07/01 21:25
別の件にて。
以前、旗の台周辺の写真を見てもらった者です。
その節はありがとうございました。
旗の台駅の三間通りの初期の写真やまだ出ていない東洗足駅の周辺写真などがあります。これら町会関係で整理していたもので、なかなか町会誌発刊には至っていません。大変貴重な写真だと思っています。
尽きましては、これらを踏まえて見てもらう機会、オフ会とか催すことなどいかがかと思いココに書かせてもらいます。難しいですかねえ〜。
投稿情報: nu | 2014/07/01 21:39