前回「碑文谷第二耕地整理組合地(東京目黒区)における新大字命名直前の状況 」の続き。
昭和7年(1932年)10月1日は、東京市が周辺5郡82町村を合併した日であり、荏原郡下の町村もすべて東京市に属した。碑衾町も東京市目黒区の一部(半分)を構成し、町内の大字・小字すべてが市区の町丁となった。つまり、昭和7年10月1日をもって、すべての字が消滅したのである。
にもかかわらず、昭和7年9月10日。碑衾町は(正確には東京府が決定するが申請は碑衾町)、耕地整理工事が完了した碑文谷第二耕地整理組合地に属する地域を以下のように改称・境界変更した。
旧字界は黄細点線、新大字界は黄実線で示した。そう、碑文谷第二耕地整理組合地のほとんどは、大字碑文谷の小字から、新たな大字として大字碑文谷から独立したのである。
- 大字鷹番 = 字五本木前(部分)+ 字鷹番(部分)+ 字北三谷(部分)+ 字三谷(部分)
- 大字三谷 = 字五本木前(部分)+ 字馬引沢境 + 字北三谷(部分)+ 字西ノ前(部分)+ 字三谷(部分)+ 字西池下(部分)
- 大字本郷 = 字西ノ前(部分)+ 字三谷(部分)+ 字西池下(部分)+ 字田向(部分)+ 字殿山
ただし、碑文谷第二耕地整理組合地でありながら、大字衾字東谷戸の一部は隣接する大字本郷には加わらず、大字衾にとどまった。この3大字の誕生(独立)によって、昭和7年(1932年)9月10日から荏原郡碑衾町は、以下のように再編成された。
既に、大字衾から大字自由ヶ丘が独立しており、新たな3大字が追加となって碑衾町は6大字となった。大字自由ヶ丘を含め、新設された大字には小字は設定(継承)されず廃止された。これは、東京市へ合併される前提として行われたものであり、昭和7年(1932年)10月1日に東京市に合併された際は、大字鷹番、大字三谷、大字本郷、大字自由ヶ丘は境界変更されることなく、そのまま東京市目黒区の町となったのである。この際、
- 荏原郡碑衾町大字鷹番 → 東京市目黒区鷹番町
- 荏原郡碑衾町大字三谷 → 東京市目黒区三谷町
- 荏原郡碑衾町大字本郷 → 東京市目黒区本郷町
- 荏原郡碑衾町大字自由ヶ丘 → 東京市目黒区自由ヶ丘
となり、自由ヶ丘だけが「町」と付けなかった点に、この町の矜持を見ることができるが、それ以外はいずれも「町」を付けたことで、9月10日に成立した大字名はわずか3週間で終わったのであった。
といったところで、今回はここまで。
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