お詫び:2014年4月21~23日午前、及びそれ以降も断続的につながりにくくなっています。DDoS攻撃をTypePadが受けた(ている)影響らしいのですが困ったものです。念のため、避難先を「XWIN II Weblog 2」として確保しましたが、まだ何も移行していません。
今回は、東京都品川区にあたる地域で施工された三谷耕地整理組合の範囲を示しながら、このエリアの歴史などを簡単にふれていく。
三谷耕地整理組合施工地は、現在の東急目黒線 武蔵小山駅から西小山駅間の南側に位置し、旧東京府荏原郡平塚村(後、平塚町→荏原町→東京市合併時に荏原区の一部)の大字小山のうち、字三谷耕地と隣接する大字中延の飛地(概ね目黒線で区切られた部分)や大字戸越のごく一部から構成されたエリアで、大正12年(1923年)に耕地整理組合が成立し、大正14年(1925年)までにほぼ換地処分が終わるという、非常に早いスピードで事業が進んだ。
1923年といえば、目黒蒲田電鉄による今日の東急目黒線が開通した年にあたるが、鉄道建設工事と同時に進められていた田園都市(洗足。第一期)建設に大きな影響を受け、この三谷耕地整理組合を含めた目黒線沿線地域で次々と耕地整理組合が設立、施工されていた時期に相当する。
近いうちに取上げる予定であるが、この三谷耕地整理組合地と目黒線を挟んだ反対側には、ほぼ同時期に碑文谷耕地整理組合地があり、武蔵小山駅周辺の爆発的な発展は、この両耕地整理組合が積極的に事業を進めた結果であるといって過言ではない。無論、関東大震災による都心の壊滅という事態が、それをより加速させたのも事実であるが、住宅地としての準備が整っていなければそのようにならないことはならない。具体的には、現目黒区の碑文谷二・三丁目あたりは耕地整理されていなかったため、発展から置き去りになっていたのである。
耕地整理事業で最も時間がかかるのは、権利関係の調整である。一人施工(土地所有者が一人しかいない。いわゆる単独施工)であれば、調整するのは道路管理者等、公的機関のみとなるが、複数人であれば事業費の分担方法などはもちろん、最終的にどの土地を誰にあてがうかという換地処分に最も時間を要する。減歩率一つとっても、大土地所有者と商店経営者のような店舗付家屋の土地のみ所有しているのとでは、同じ20パーセントとしても零細土地所有者には厳しいだろう。よって、戦前には耕地整理工事が完成したものの、換地処分はようやく戦後になってというところも少なくない。
それが早期に確定するということは、利害関係から、というのはもちろん、リーダーシップを持った地元の名士があるなどの要因もあるだろう。だが、それ以上に大きいのは非協力的な地主の排除である。耕地整理組合が成立すれば、その組合地の土地を自由に売買することが禁止されるということもあるが、それ以上にいうことをきかない組合員が入っては困るという考えである。武蔵小山駅周辺(耕地整理組合成立時は単に小山駅)の土地は、利権目当てにむらがる怪しげな小規模地主(あるいは地主と称するだけの怪しい人たち)が割拠しており、これを組合地に組み込んでしまうと当然、進む話も進まなくなる。もっとも駅隣接地は、耕地整理などせずとも十分に利益をあげることができるので、下手に減歩率を適用され、ただでさえ小さい土地を削られるメリットはない。お互い適当な距離感があって、一部駅周辺の土地を除いた形で組合地が成立したのである。
組合地の道路パターンは、目黒線と平行する道路とそれと直行する道路とで構成されているが、これは目黒線と合わせたというよりは、地域にもとからあった主要道を背骨のようにして構成したに過ぎない。また、南側がV字のようになっているのは字界の道路(現在も道路として継承)の形からで、ここから南側の街区とは異なる道路パターンとなっていることからも、耕地整理の境界であることが確認できよう。また、南西側に凹みがあるのも字界に由来する。
以上、簡単ではあるが三谷耕地整理組合地に関して、あれこれ語ってみた。今では狭い道路であるが、これでも当時としては広い道路であり、まさか自動車交通が主流になるとは考えられなかった時代の産物ではある。しかし、道路を広く取ればそれだけ減歩率は高くなり、地主(組合員)からの反発は強くなるわけだから、建前上は「自動車交通が主流になるとは考えられなかった」としつつ、実態は減歩率を少しでも減らしたかったというのが本音であるだろう。といったところで、今回はここまで。
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