直近四回は、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄(と東京横浜電鉄)、玉川電気鉄道と今日の東京急行電鉄を形作った鉄道会社を取上げ、続いて大東急を形成した際に合併した京浜電気鉄道を取上げた。この流れからお察しのように、今回は小田原急行鉄道である。小田原急行鉄道は、鬼怒川水力電気という強大な資本によって設立したこともあって、これまで4回にわたって取上げてきた路面電車上がり、土地開発会社上がりの会社とは異なり、資本金の巨大さと原野レベルの土地に一気呵成で鉄道網を作り上げるという、当時の鉄道会社の「常識」とはかけ離れた格好であった。しかし、いくら巨大な資本があっても延々と赤字を垂れ流しつつ、固定資産がまともに使われないまま償却していく過程では維持していくのも困難であり、電力業が国策によって官営化されていく中、維持もままならなくなり、ついに東京横浜電鉄に合併されることとなる。とはいえ、資本レベルでは平和的な合併劇も従業員レベルではそうではなかったので、戦後になって大東急分離闘争の尖兵となるのは仕方のない、時代の流れというべきか。
では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」109ページの「小田原急行鉄道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。
創立………………大正十二年五月
開業………………昭和二年四月
資本金(公称)…三千万円
資本金(払込)…七百五十万円
営業線亘長………五十一哩三十四鎖
軌間………………三呎六吋
車輌ボギー車……四十一輌
蒸気機関車………二輌
車輌 貨車………八十四輌
運輸従業員………四百九十七名
兼業………………土地、遊園地経営
(昭和二年四月末日現在)
当社は新宿、小田原間に高速鉄道を運転する目的を以て大正十二年五月設立せられ、当初の資本金は一千三百万円であったが、昭和二年一月三千万円に増資した。創立後間も無く大震災に遭い一時進退両難の窮地に陥ったが、やがて善後策を確立し大正十四年十一月から一斉に全千五十一哩余の工事に着手し昭和二年四月一日落成を告げ即日開業したのである。
当社線は省線新宿駅を発して千駄ヶ谷町、代々幡町、世田谷町等の殷賑なる東京市郊外接続町村を貫通し、武蔵、相模の大平野を縫って遠く小田原に達するものであるが、新宿より多摩川辺に至る約十哩の間は急速なる発展を遂げつつある地域で開通匇々の乗客は主として此の区間の者が大部分を占めると聞く。但し開業以来日尚浅き為未だ詳細なる数字を得ないが、昭和二年四月中の旅客運輸業績は乗客三十七万六千二百三人、賃金は十六万一千九百七十円三十六銭にして一日平均は乗客一万二千五百四十人、賃金五千三百九十九円一銭である。
次に当社の計画線としては、本線の原町田駅から分れて東海道線の藤沢駅に至る十三哩七十鎖の江の島線あり、昭和三年三月頃に開通の予定であると云う。
開業が昭和2年(1927年)4月、そして(おそらく)原稿の締切りが同年4月末現在では大したことが書けないのは仕方のないところ。しかし、開業1か月の営業成績として、
- 乗客……………376,203人
- 同一日平均…… 12,540人
- 賃金……………161,970.36円
- 同一日平均…… 5,399.01円
とあって、どちらも池上電気鉄道を大きく上回り、目黒蒲田電鉄と比べても運賃(賃金)は多くなっている。とはいえ、営業路線の長大さを思えば、運賃については高額となるのは自明であるし、一方で乗客数が目黒蒲田電鉄の約4分の1でしかないことで、大変効率の悪い営業成績であることもまた明らかである。
では、以前と同様、最後に本書掲載の「小田原急行鉄道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。
「いっそ小田急で逃げましょか」の歌詞のとおり、一挙に小田原まで複線で開通させ、ロマンスカーを運行させた小田急ですが、途中の宅地開発が遅れて、従業員の待遇改善もままならない状態であったと言うことですので、流行歌も経営改善に役立たなかったようですね。閑話休題
投稿情報: 木造院電車両マニア | 2014/02/03 11:18