今回は、我が国最初の総合的な鉄道史である「日本鉄道史」(鉄道省。1921年8月31日発行)のうち、下巻に掲載されている路線図、さらに首都圏の路線図(東京及横浜近傍。大正9年3月末現在)を眺めながら、あれこれ語っていこう。
現在の路線図と見比べると、JR線はあまり変化が見られないが、私鉄については大きく異なっていることに気付くだろう。なお、上図は黒実線が開業路線、白黒実線が未開業路線(免許線)となっている。中でも思いっきり異なるのは、東京城南地域の路線(免許線)図である。
原図の解像度が低いので、拡大するとぼけぼけになってしまうのはご容赦だが、概ね判読には支障がないだろう。まず興味深いのは、関東地方最古の現役私鉄である京急線が描かれていないことである。路面電車(軌道)扱いとされているのが理由かと見るが…。
そして、さらに興味深いのは白黒実線で描かれる免許線(未開業線、未成線)で、現在路線とほぼ一致するのは蒲田~池上間の池上電気鉄道線のみで、それ以外は大きく異なる(辛うじて東横線の元となる武蔵電気鉄道線が近いと言えるレベル)。以下、個々に見ていこう。
大井町~調布(5.24km)は、荏原電気鉄道線で、田園都市株式会社の鉄道部門(というよりは免許取得のためのペーパーカンパニー)が田園都市への足として計画したもので、荏原電気鉄道→田園都市株式会社→目黒蒲田電鉄と免許が異動し、最終的に現在の大井町線の一部(大井町~大岡山)として完成した。残る区間(大岡山~調布)は、目黒蒲田電鉄本線として目黒~丸子(現 沼部)の部分として組み込まれたので、基本線としてはすべて実現したとなるだろう。
蒲田~調布(4.05km)は、武蔵電気鉄道の支線(蒲田支線)であったが、五島慶太の目黒蒲田電鉄移籍と共に目黒蒲田電鉄に無償譲渡されるという奇怪な運命をたどり、目黒蒲田電鉄本線の一部として組み込まれた。これも基本線としてはすべて実現したといえる。
大森~池上~目黒(7.70km)は、池上電気鉄道の本線と位置づけられるが、大森~池上は計画頓挫。池上~目黒は、道々橋経由から光明寺経由と大きく迂回した後、雪ヶ谷までの部分開業後に、目黒蒲田電鉄線との競合から起終点を目黒から五反田へ変更したことで、計画路線も大きく変わった。計画線とは大きく変わったが、一応は実現したといえるのではないだろうか。
蒲田~池上(1.11km)は、結果的に池上電気鉄道が最初に開業した路線であるが、この図に記載されている中では池上電気鉄道計画線中で最も新しい。これは大森~池上~目黒の計画線よりも優先順位が高かった等ではなく、単に工事費が安価に済むからと言う消極的理由からだった。
渋谷町~目黒~調布~高島町(15.10km)は、武蔵電気鉄道の本線と位置づけられていたが、資金繰りが進まず、座して死を待つような状態だった。それが、現在は東急東横線として重要路線として成立し得たのは、単に五島慶太の「想いの強さ」に他ならない。目黒蒲田電鉄と田園都市株式会社の資金(利益)を武蔵電気鉄道の買収と鉄路建設に直結させたのが五島慶太であり、様々な見方はあるが、結果としては意義あるものだったとなるだろう。なお、図中の渋谷町は現在の渋谷駅ではなく、渋谷広尾町(現在の日比谷線広尾駅の南あたり)を指す。また、目黒とあるのも目黒駅ではなく目黒町(現在の中目黒駅付近)を指す。
以上、簡単にふれてみたが、この後の東京圏は関東大震災に見舞われ、都市計画そのものの見直しが大きく進み、爆発的な郊外移転の波が押し寄せることになる。ある意味、牧歌的な時代の計画であるものの、計画の基幹はそれほど動いていないとも言える。そんなことを踏まえつつ、今回はここまで。
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